あるてみす

あるてみす (2)


 私は“群集”をすり抜け、たどり着いた交差歩道橋の上から、真下の交差点を見下ろし、途切れもせずに、ひっきりなしに走りまわる車の流れを見つめていた。私の後ろを無関心な人々の列が、細く途切れがちなせせらぎとなって通り過ぎてゆく。私は「ほぅ」とひとつ大きな長嘆をもらす。
 さすがにこの歳になると無理な徹夜は体にひびく。完徹ではなかったが、それでも一日平均一時間の睡眠、さらに土日返上でここ一ヶ月ほど休みなし。たまった疲れは、完全に癒されることはなく、ただ倍増するように積み重なっていってしまう。しかし、プロジェクトは遂に峠を越えた、今日は帰ってゆっくりと休める。仕事から開放されたためか、張り詰めた緊張の糸が切れたように、それまでの疲労がいっきに吹き出したようだ。ぼんやりとした意識を振り払おうと、私は左右に思いっきり頭を振り、形だけ首にぶら下げたネクタイをゆるめた、そしてゆっくりと空を見上げる。

 月だ……。

 かなり低い位置だったが、夕暮れ前の南の空に、林立する巨大なビルの谷間に、都市計画者やビル設計者、ましては都市開発を担う役所の担当課の課長などが思いもよらなかったように、ザックリと美しく切り取られた、大都会のただ中の自然の空に、ポツリと蒼白い半月が浮かんでいた。

 私の心は急速に少年時代へと引き戻されてゆく、あの懐かしい海辺へと。
 思い出すのは、あの真夏の夜。あの暗く静かな日本海の波音。そして、夢の世界へさまよった、あの幻想の出来事……。ベックリンの絵のような、ゴヤの黒い絵のような、超越された現実を夢想と夢幻の中に描く、幻視者の幻の論理の上になりたった怪しい夢、哀しいまでに現実を思い起こさせる、条理的でいてなおかつ不条理な“夢”の出来事を。そう、きっと夢なのだ、あの思い出が現実であるわけはなかった。しかし、それからの私の人生を完全に変えてしまった夏、こうやって徹夜明けの重い体を引きずって月を見上げているのも、すべてあの夏の夜が始まりだった。思い出されるのは、そんなはかない別の世界で起きたような出来事と、数え切れない豊かな生命の誕生……、そしてその限りない死滅……。
 私が初めて海というものを目の当たりにしたのは、そう、今からもう二十年近く以前のことになる。その年に知り合った新しい友人とともに、その海へ出かけた。
 日本海に面した小さな海水浴場で、三方を松林にかこまれた小さな海の家。静かな波打ち際が続く、ぽっかりと海に突き出した海岸線。それは私が中学へ入学した年の夏のこと、私はまだ十二歳だった。
 私はそれまで海を見たことがなかった。