あるてみす

あるてみす (9)


 私たちは定刻通りに発車した上り特急列車の自由席に座り、ビル群の谷間を抜けてゆく。座席に滑り込めたのは奇跡的な偶然だったのか、車内はぎっしりと混雑しており、狭い通路にも人が溢れたいた。そこかしこで楽しそうに弾む会話、車窓には流れ去るビルまたビル、路線わきを平行する国道の車を追い越しながら、次々と過ぎゆく景色。私はカケルとぽつりぽつりと、とりとめもない会話を交しながら、じっと車窓の風景に目を向ける。突然ビルの姿は消え、こじんまりとした住宅街が姿を現す。次々と駅を通過しながら列車は駆け抜けてゆく。この列車の中は、外の世界から完全に切り離されている、私はそんな気持ちにうたれ、現実のものと思えない速度で変化してゆく世界に戸惑いを覚える。
 とぎれた会話に、ふとカケルを見ると、カケルは座席に頭を持たせかけ、静かに眠りに落ちていた。眠いのは私も同じだったが、初めての旅に興奮していた私は、ただじっと窓の外を眺めながら、窓枠に切り取られた、流れ消えゆく別世界の町並みを、一軒一軒と数えるように見つめていた。
 そろそろ十一時になろうかというころだった、それまで谷間を走っていた列車の周囲が突然開け、緩い傾斜の先に、真っ青な空と解け合うようにそれが横たわっているのが望めた。車内が一瞬ざわめく。
 海だ……。

 海だ、海だ、海だ、ついにやってきた。
 それまで、変わり栄えのしない山間部の風景にうんざりとし、うつらうつらと船をこぎ始めていたわたしは、瞬時に目がさえ、座席の上に起き上がる。海だ、始めてみる海、それまでテレビや写真で見ていた海と同じようでいながら、どことなくなにか特別なものを見たような感慨が私を捉えた。
 と、鼻先にかすかに、初めて嗅ぐ香りが……、潮の香? 特急列車の窓はどこもはめ殺しのため、車外の空気が流れ込むことはないのに?
 まだ海はだいぶ離れている。波打ち際は木々の陰に隠れて見えない、静かに揺れる白い波頭、漁港が近いのか沖に浮かぶ小さな漁船が数隻。
 列車がスピードを落とし、次の駅のホームに滑り込む。乗降口が開き、この車両からも数名が降り、また乗り込む。先程鼻先に感じた香りが、今度は鼻の奥をツンと刺激する。潮の香、はっきりと強くではないにしろ、その空気中に含まれる成分は、私の街のそれとは微妙に違い、私に世界が変わったことをはっきりと認識させた。そうだ、この香りだ。海苔の香りのようでかすかに違う、あさりの匂いとも違うし、ましてや鮮魚の生臭さとも違う。とにかくその磯の香だ、これこそがテレビや写真だけでは感じられない、私がありありと具体的にイメージできなかったものの正体だ。存在は視覚だけではなく、嗅覚や聴覚、さらに空気に含まれる微妙な成分の差から感じられる触覚の違い、そられの様々な要素を体全体で感じて、我々は初めて具体的な存在をリアルに認識するのだ。海だ、まだ遠く離れているが、私は今度ははっきりと海の存在を感じ、ふつふつと身内から沸き上がる興奮を感じていた。私はその時、初めて海に出会ったのだ。私の世界がまたひとつ確実に広がった瞬間だった。
 実際に目の前に海を望み、その中に飛び込んだときのことを想像し、私はさらなるショックと興奮とに襲われた。列車の揺れや騒音はもはや私の意識の中から排除され、私は具体的なイメージに身をまかせた。世界が広がった瞬間から、私は海のイメージをありありと思い浮かべることができるようになったのだ。