「兄さん、あたしだって最初はくよくよしてましたよ。でもね、くよくよしたって始まらねえんですよ、前を見なきゃ、昨日何があったかなんて関係ないんですよ、明日何があるか、ただそれだけですよ。そうやって達観できるようになったのは、ほら、兄さんの見てるその窓、その窓から毎日小学生が通学してるのが見えるでしょう。その子供達の中にね、変な歩きたかをしてる男の子を見つけてからなんですよ。普通ならそろそろ下を通るころですがね……」
そういわれてしばらく下のY字路を見ていた私は、ふとその子を見つけた。右足を大きく開きながら不自然に歩いている、右の膝を曲げずに体の外に半円を描くように歩いているその足は、黒いジャージに隠れてはいたが、あきらかに義足だった……。
その子は四年生ぐらいだろうか、あまり大きくない体に、少しくたびれた黒いランドセルを背負っている。
「兄さん、あの子を見つけたようですね。あたしらいい大人が、歩けなくなっただとかいって、くよくよしてる時にあの子は嬉々として走り回ってるんですよ。それを見てあたしは思いましたね、そうかあたしなんかよりよっぽと辛いはずの子供達がきっとこの世界のどこかで“生きて”いるんだな、とね。それはそれで、もうどうしようもないほどの現実なんですよ。この世界のどこかで、この私達がベッドの上で悶々としているのと同じ世界のどこかで、ベッドに縛り付けられた子供達や、自分の存在を理解できないでいる子供達、食べる物も、そしてかまってくれる者さえもなく静かに息を引き取っていく子供達が、どうしようもない現実として、どこかで今を“生きて”いる。そう思った時、あたしも生きなきゃいけないなと、そう思うようになったんですよ」
彼はそう言ってはにかんだように笑った。私をこの窓際のベッドに入るように取り計らったのはきっと彼なのだろう。
数日後、彼は家族とともに車椅子に乗り退院していった。これから足を使わないでも運転できる車を買って、また運転をやるんだと言っていた。退院したからといって、これからの彼の人生が、少しでも良くなるわけではなかった。それでも彼は、とても明るかった。まるで私を励ますかのように。
それ以来、私はつきものが落ちたように、憎悪の塊をどこかに置き忘れてしまった。それ以来の私の楽しみは、この病室の窓から、通学途中の子供達を見ることであった。
私はくよくよするのはやめた、苦しいことだが、新しい人生について考えはじめた。この足で、おそらく松葉杖なしでは立つことも困難になるだろう、その私にどんな仕事が出来るだろう。マラソン・ランナーとしてはもはやどうにもならないことはわかっていた、大学に復学出来るだろうかとか、就職はどうしようかだとか、実家のミカン畑で働けるだろうか、などと漠然とではあったが、私にもどうやら生きる気力がわいてきたようであった。すべては日々力強く、そして嬉々として“生きて”いる、あの義足の男の子のおかげだと思った。自分の力で“歩く”ことの尊さ。私と車椅子との格闘が始まったのも、そんな時期であった。
戦いを始めた私に第一におとずれた試練は、ベッドから車椅子へと移ることであった。まだ若いために、数ヶ月の入院生活での体力的な衰えはほとんどなく、ベッドの上に起き上がることに問題はなかった。だが、いざ車椅子に移ろうとすると、途端に腕がすくみ、恐怖心がわいてくるのだ。車椅子には、ベッドの上から後ろ向きに乗り込まなくてはならない。腕の力を利用し、ベッドの縁まで移動し、背後に車椅子があるのを確認し、思い切って車椅子の上へ落ちる……。この時の恐怖感をぬぐうのは並み大抵ではなかった。看護婦さんたちの助けを借り必死で挑戦し、第一の関門を突破すると、次には病棟の狭い廊下での死闘が始まった。
狭い六人部屋の病室内では、車椅子の練習など出来るわけがない。私のベッドは、脇に車椅子が入るように若干移動してあるが、後は廊下へ続く一本道しかない。しかし廊下へ出ると、回診や検温、食事などの巡回があるため、思うように移動出来ない。しかたなく巡回のないわずかな時間を見はからい、廊下へ車椅子を乗り出していくと、車椅子をコントロールすることが思いのほかに難しいことに気付いた。車椅子の操作には独特の“コツ”が必要だった。方向転換するたびに、思いもよらない大回りをしてしまったり、そのまま壁に突き当たり身動き出来なくなることも度々あった。そのたびに、回りの患者たちから笑われ、あるいは声援を受け、私の車椅子操作の技術は徐々にではあるが向上してきてはいた。
そんな車椅子との死闘から幾日か経過した頃、私には新しく、もうひとつの楽しみができた……。