しあわせな老人

しあわせな老人 (3) そのこと

そのこと

 老人は死ぬことを考えていた。
 公園のベンチに座るひとりの老人。その老人に、ひとりの青年が近づいてきた。歳の頃は二十代半ば、老人の孫のような年齢である。上品なスーツを着こみ、短く切りそろえた清潔な髪、愛敬のある目と鋭く尖った鼻梁とがアンバランスにまとまっている。くちもとからこぼれた並びのいい歯が白く透けてみえる。
「失礼ですが」
 青年がそう声をかけたとき老人は、その声が自分に向かってかけられたものだとは思わなかった。
「失礼ですが、おじいさん。少々お話しさせていただいてもよろしいですか」
 それが自分に向かってかけられた言葉だと気付いたとき、老人はあまりの意外さにあっけにとられてしまった。
「あ、あの、わたし、ですか?」
 青年はこくりとうなづく。老人はあわてた、
「え、ええ、その、どこかでお会いしましたか?」
 青年はにこりと笑い、答えた。
「いえ、たぶん初めて会うと思います」
「ひ、ひと違いではないのですか」
 老人は、昔から内向的で、けっして社交的な性格とはいえなかった。こうやって初対面の人物に、親しく声をかけられたとたん、老人はどう対応してよいのやらわからなくなっていた。
 青年はにこにこと、なおも話しかける。
「たぶんひと違いではないと思いますよ。おじいさん、寒くはありませんか?よろしければそこの喫茶店にでも入りませんか? コーヒーをごちそうさせてください」
 老人はあっけにとられた。いまの若い人達は、見ずしらずの老人に親切にしてくれるほどやさしいのだろうか?
 青年は返事をしない老人の態度をどうとったのか、さあ、いきましょう、と、なかば強引に老人の手をとり、さっさと喫茶店に入ってしまった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (2)


 公園のベンチには、もうかなりの年齢と思われる老人がひとり、ひっそりと座っている。老人は何をするでもなく、ただ紫色に染まる空を見上げたり、葉も落ち北風に凍える公園の木々をながめたりと、ぼんやりと長い時間をつぶしているかのように見える。
 そんな老人を横目に、一人の男が路地を表通りへと歩いていく。このあたりは少々名の売れた占い師である。心なしかいそいそと、半分駆けるように通りすぎて行くのは、慌ただしく過ぎる今日の時間が彼を急かすのであろうか。 辺りはめっきりと冷えていた。老人はコートも着ず、汚れた上着をひっかけ、さびしげにベンチに腰かけている。
 老人はここ何年か、毎日必ずこの公園へやってきては、こうやって長すぎる自身の時間を一人ですごした。もうすでに日課になっていた。
 もう何年になるのか……、長年つれそった妻に先立たれ、独立した息子にも相手にされず、ひとりさびしく余生をおくるはめになってしまったのは。
 趣味も持たずに、いな、ただ仕事だけを趣味にして働き続けた幾星霜。歳をとり、退職して手元に残ったのは、わずかばかりの退職金と、何もすべきことのない空しく長い、苦しい日々だけであった。そして妻の死……。
 もはや人生の目標も、目的もなく、ただ生きていくだけといった人生が、いかに味気なく、いかに寒々としたものであるか、この歳になって初めて知ったとき、すでになすすべもなくたたずむ自身を見出すのみであった。
 この公園は、老人にとって思い出の場所である。
 もう随分と遠い昔、この公園ができる前に、ここには小さな池があった、厳しい日照りが続くとすぐにひあがってしまうような、水たまりのように小さな池であった。その池のほとりで初めて、まだ若かったころの老人と、彼よりもまだ若かった彼の妻とは出逢った。
 その池は、二人がひそかに逢う秘密の場所であり、二人が出逢った神聖な場所でもあった。池が枯れ、その上に公園ができてからも、二人はこの場所で逢った。二人が結婚してからも、二人連れだって歩き、息子が生れてからは三人で歩いた懐かしき場所。区画整理のために小さく削られたときも三人で歩き。息子がひとり立ちしてからは、また二人で歩いた思い出のこの公園。いまはたったひとりで、毎日ベンチに座り続けるだけになってしまった。
 今日は、亡妻と始めて出逢った記念の日だ。なぜあのとき、大晦日だというのに、自分はここにいたのか、今となってはもう思い出すこともできなくなってしまった。遠く遠く、そして遥かかなたにかすむ過去のことであった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (1) このこと


 偽りの愛
 偽りの優しさ
 偽りの微笑み
 偽りの幸せ
 偽りの真実
 偽りの現実
 だがこの世に偶然はなく
 必然の中に偽りはない

このこと

 もう日は暮れかけていた。
 それはいつの時代のことであったのか、十二月三十一日、大晦日とよばれる一年の締めくくり、世界中があわただしく新年を待つその日。何という街かはわからない、ある程度やさしく、ある程度つめたい、そんな人たちの住む、そんな人たちにぴったりの街で……。
 その日は朝から曇天に包まれていた。人の肩に止まるとすぐに消えてしまい、積もることなくはらはらと降り続いた小さな粉雪は、午後になるともう降りてくることはなく、西から徐々に晴れかけた空には、傾き始めた陽が乾いた冬の町に明るく差しこんでいた。
 そこは人通りの少ない路地であった。比較的大きな通りから、ビルの谷間をぬけるように細々と続いている。左手のビルの裏手には、小さな古い公園があった。近所の悪ガキどもも、この日ばかりは家でおとなしくしているのであろうか、子供たちのはしゃぐ声も聞こえない。路地の右手のビルは、一階が全フロア、十九世紀の西部アメリカ風に内装された、大きな喫茶店になっている。喫茶店は大晦日だというのに平常通りに営業していた。
 時刻は、そう、もう夕方、辺りはそろそろ暗くなろうかという一歩手前、太陽の余韻は、ビルの谷間をぬけた大通りのむこう、西の空を今年さいごの夕焼け色に染めていた。冬の夕日は赤々と人々の目を射るように燃えている。すでに辺りに人影はなく、ただ公園の向かいにある喫茶店の窓から、テーブルに向かう人々の姿がちらほらと見えた。