しあわせな老人

しあわせな老人 (3) そのこと

そのこと

 老人は死ぬことを考えていた。
 公園のベンチに座るひとりの老人。その老人に、ひとりの青年が近づいてきた。歳の頃は二十代半ば、老人の孫のような年齢である。上品なスーツを着こみ、短く切りそろえた清潔な髪、愛敬のある目と鋭く尖った鼻梁とがアンバランスにまとまっている。くちもとからこぼれた並びのいい歯が白く透けてみえる。
「失礼ですが」
 青年がそう声をかけたとき老人は、その声が自分に向かってかけられたものだとは思わなかった。
「失礼ですが、おじいさん。少々お話しさせていただいてもよろしいですか」
 それが自分に向かってかけられた言葉だと気付いたとき、老人はあまりの意外さにあっけにとられてしまった。
「あ、あの、わたし、ですか?」
 青年はこくりとうなづく。老人はあわてた、
「え、ええ、その、どこかでお会いしましたか?」
 青年はにこりと笑い、答えた。
「いえ、たぶん初めて会うと思います」
「ひ、ひと違いではないのですか」
 老人は、昔から内向的で、けっして社交的な性格とはいえなかった。こうやって初対面の人物に、親しく声をかけられたとたん、老人はどう対応してよいのやらわからなくなっていた。
 青年はにこにこと、なおも話しかける。
「たぶんひと違いではないと思いますよ。おじいさん、寒くはありませんか?よろしければそこの喫茶店にでも入りませんか? コーヒーをごちそうさせてください」
 老人はあっけにとられた。いまの若い人達は、見ずしらずの老人に親切にしてくれるほどやさしいのだろうか?
 青年は返事をしない老人の態度をどうとったのか、さあ、いきましょう、と、なかば強引に老人の手をとり、さっさと喫茶店に入ってしまった。