公園のベンチには、もうかなりの年齢と思われる老人がひとり、ひっそりと座っている。老人は何をするでもなく、ただ紫色に染まる空を見上げたり、葉も落ち北風に凍える公園の木々をながめたりと、ぼんやりと長い時間をつぶしているかのように見える。
そんな老人を横目に、一人の男が路地を表通りへと歩いていく。このあたりは少々名の売れた占い師である。心なしかいそいそと、半分駆けるように通りすぎて行くのは、慌ただしく過ぎる今日の時間が彼を急かすのであろうか。 辺りはめっきりと冷えていた。老人はコートも着ず、汚れた上着をひっかけ、さびしげにベンチに腰かけている。
老人はここ何年か、毎日必ずこの公園へやってきては、こうやって長すぎる自身の時間を一人ですごした。もうすでに日課になっていた。
もう何年になるのか……、長年つれそった妻に先立たれ、独立した息子にも相手にされず、ひとりさびしく余生をおくるはめになってしまったのは。
趣味も持たずに、いな、ただ仕事だけを趣味にして働き続けた幾星霜。歳をとり、退職して手元に残ったのは、わずかばかりの退職金と、何もすべきことのない空しく長い、苦しい日々だけであった。そして妻の死……。
もはや人生の目標も、目的もなく、ただ生きていくだけといった人生が、いかに味気なく、いかに寒々としたものであるか、この歳になって初めて知ったとき、すでになすすべもなくたたずむ自身を見出すのみであった。
この公園は、老人にとって思い出の場所である。
もう随分と遠い昔、この公園ができる前に、ここには小さな池があった、厳しい日照りが続くとすぐにひあがってしまうような、水たまりのように小さな池であった。その池のほとりで初めて、まだ若かったころの老人と、彼よりもまだ若かった彼の妻とは出逢った。
その池は、二人がひそかに逢う秘密の場所であり、二人が出逢った神聖な場所でもあった。池が枯れ、その上に公園ができてからも、二人はこの場所で逢った。二人が結婚してからも、二人連れだって歩き、息子が生れてからは三人で歩いた懐かしき場所。区画整理のために小さく削られたときも三人で歩き。息子がひとり立ちしてからは、また二人で歩いた思い出のこの公園。いまはたったひとりで、毎日ベンチに座り続けるだけになってしまった。
今日は、亡妻と始めて出逢った記念の日だ。なぜあのとき、大晦日だというのに、自分はここにいたのか、今となってはもう思い出すこともできなくなってしまった。遠く遠く、そして遥かかなたにかすむ過去のことであった。