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風が冷たい——。
星野病院は五階建の三つの棟からなり、三階の渡り廊下で、正三角形に結ばれている。それぞれの棟の間には狭い道路がY字形に走っており、その人工の谷間には春夏秋冬、四季折々の強い風が季節ごとに吹きおろす。春には春一番がさくらの花びらとともにコンクリートの谷間を吹き抜け、夏には雨粒とともに台風の風が、秋には紅葉とともに、冬には雪とともに……。
冬の風は冷たい。肌を切るように固く痛い風。あまりの風にコートの襟を押さえ、体を斜めに傾けながら歩く人影は、妙に小さくはかなげに見える。時たま風にあおられて、小さな子供が前に進めず、じっと、そう、まるで石に変わってしまったように動かずに、一生懸命ふんばっていたりする。かと思うと、小さなジャンパーを思いっきり広げ大きく風を受け、凧のように、ふわりと一瞬体が浮くのを楽しむ小さな一団を目にしたりもする。中には数メートルも後ろに飛ばされる子供もいる。このY字路は小学校の通学路、いわゆるスクールゾーンであるため、平日の間は毎日決まった時間になると、黒や赤のランドセルを背負った子供達が賑やかに通り過ぎるのを見ることができる。こんなふうに毎日飽きもせずに、まるで日課のように、いや日課として、この病室の窓からY字路を見下ろすのは、そんな子供達を、そして、いそいそと急ぎ足で通り過ぎる大人達を見つめるのが、もう自分の脚力で歩くことのない私にとっては、妙に浮かれた、楽しげな気分にさせてくれる数少ない楽しみのひとつとなっていたからだろう。
入院した当初──もう半年程前になる、交通事故で両足をだめにしたばかりのころの私は、看護婦さんたちや病院の先生方、家族や見舞いに来てくれた友人達に、寄るとさわるとあたり散らしていた。私はもう歩けないのだ、その事実はまだ若い私には絶えられないほどに重くのしかかってきていた。高校時代に長距離走者としての才能を見いだされ、大学で陸上部の期待を一身に背負い練習に明け暮れていた私にとって、相手の不注意のために両足の神経と骨をずたずたにされたことは、もはや自分の理解の範疇を越えていた感があった、この世のあまりの不公平さに周囲を呪っている毎日だった。
窓際のベッドに入っていた私は、病室の窓から見える人々、とくに風と戯れる子供達はもはや憎悪の対象でしかありえなかった。私を窓際のベッドに入れた医師達にさえも憎悪をおぼえた。
そんなとき、私の隣のベッドに入っていた壮年の患者にぼそりと言われたことが、私の生き方を決めたのかもしれない、
「兄さん、あんたここで終わるつもりかい。ここで人生を降りるつもりなのかい」
と。
そう、私は自分に降りかかって来た、いな襲いかかって来た悲劇に叩き臥せられる寸前だったのだ。すべての責任を周りに転化し、憎悪の虜となっていた私は、人間らしい感情も、生きる意味も、自分がここに生きている事実すらも、すべて見失っていたのだ。それを思い出させてくれたのが、その彼の、短いが芯を突いた言葉だったのだと思う。
以前はこの窓側のベッドに寝ていたという彼もまた、交通事故の犠牲者であった。タクシーの運転手として働いていた彼は、深夜の勤務に就き市内を流していた時、居眠り運転のトラックにぶつけられ下半身付随になっていた。もはやその体では運転手としての勤務は不可能だった、生活の術を奪われ、家族を養うことができなくなったというのに、彼の顔はいつも晴れ晴れと冴え渡り、その笑顔は屈託の無い子供のそれのようにさえ見えた。