あるてみす (1) プロローグ

  プロローグ

 駅の改札口を通り抜け、仕事帰りの雑踏をかき分けながら、やっとの思いで空の下へはい出し一息ついた。八月の初め、うだるように暑いある午後のことだ。
 人、人、人で一面に塗りこめられた駅前広場、そこに個人は見えない。ひとつの“群集”として、整然と静かに波打ち流れる人の海。誰もがただまっすぐに前だけを見つめ、驚くほどの速度で歩み続けている。彼ら(いや、我ら)無秩序な“群集”の流れをせき止めるものは、ただ奇妙に秩序だった動きを見せる自動車の流れだけだった。歩行者用信号機が赤く光る、そのつど“群集”は奇妙な軋みを発したかのように動きを奪われ、流れが停滞する。歩行者用信号機が青く光ると、“群集”はホッと開放感にあふれた吐息を一つもらして、また新たな行軍をスタートさせる。季節がら日はまだ高く、黒々とした“群集”の頭を、ひとつひとつ照らしつけ、体内から汗となって流れ出した多量の水分が、ムッとする水蒸気となり、駅周辺一体を押し包み、とぐろを巻くように空へと立ち昇ってゆく。そして、“群集”は駅から離れるにしたがい、ある一団はタクシー乗り場へ、またある一団はバスセンターへ、さらにある一団が徒歩でと、散り散りになりながら、徐々に都市の中へ拡散しはじめる。駅前の大通りをひとつ隔てただけで、すでに“群集”は跡形もなく消え失せ、ただ帰りを急ぐ、あるいは繁華街へと向かう、またあるいはこれから賑わう夜の街へと消えていこうとする個々の人間が、ひとり、ふたりと数えられるまでになってしまった。
 駅前広場は相も変わらず“群集”の最過密地帯であり、流れをさえぎるようにぽつりぽつりと人待ち顔にたたずむ“個人”は、時折“群集”から白く冷たい視線を浴びる。カードサイズのチラシがゴミとなって溢れかえる公衆電話ボックスは、個人用の電話がいくら普及したとしても、完全に解放されることはなく人で塞がれ、“群集”から一時的に切り離された架空のプライベート・スペースを提供する。駅周辺に信じられないほどの間隔で隔てられ設置された灰皿の周辺では、“群集”から切り離された“小さな群集”がもくもくと白い煙を掃き出しつづけている。
 “群集”は一個の生命体であった。所々に隔離されたように見える小さな集合体をも飲み込む、一個の巨大な生命体だ。“彼”の意図は解らない、しかし“彼”は隠されたある大きな目的へむかって、一身に身をもだえさせているようにも見える。しかし、周辺部から押し寄せる“個々”と“拡散”の侵食により、“群集”は時間とともに衰亡の道を進んでいた。