しばらくして、老人はまた、ひとり公園のベンチに座っていた。結局、さっきの青年は、何のために老人をさそったのかわからなかった。話らしい話もせず、コーヒーを飲み終るとさっさと勘定をすませて帰っていってしまった。
しかし、老人はしあわせだった。見ず知らずの人が、自分に対して親切にし
てくれるのだ、
(この世も、まだまだ捨てたものじゃない)
と老人は思う。さっきまでもう死んでしまおうかとも考えていたのに……。
ひそかな、そして幸福感に包まれた静寂は、一分と続かなかった。どたどたと、大きな足音をたてて、大通りの方から男が走ってきたのだ。その男は落ち着きのない様子できょろきょろと辺りを見回していたが、やがてベンチに腰掛けた老人を見つけると、ニヤリといやらしい笑いを満面にうかべ、またもやどたどたと走ってきた。
男は、ごわごわとしたかたそうな髪をしていた、頬に大きな傷をつけ、真っ黒な顔にぼつぼつと無精髭をはやしているのが、街灯の弱い明かりに見える。目は充血し街灯の明かりがギラギラと反射している。手には大きな黒いかばんをもち、ニヤリとした汚い笑い顔でこちらへ走ってくるのは、あまり気持ちのよいながめではない。
「へへ、じいさん、さびしそうだな」
男はそういうと、手にもった黒い大きな鞄へ手をつっこみ、
「ほれ、これをくれてやるよ。楽しく新年を迎えるんだな」
と、大きな札束を取り出すと、老人に投げやり、そのままどたどたと裏通りへ走りさっていった。
老人はただ茫然として、手もとの札束を見ていた。こんな大金は、しずかに生活してきた老人にとって、まったく初めて見るものであった。
陽はとうに暮れていた。
老人は、せめて新しい年は、自分の家でおばあさんの写真といっしょに迎えようと思い、ベンチからたちあがると、とぼとぼと裏通りに面した公園の出入口にむかって歩きだした。上着のポケットにはさきほどの札束を入れたまま……。
ちょうど公園を出かかったとき、猛スピードで走ってきた黒いぴかぴか光る車が、急に老人の目の前でとまった。
あたりの空気をかき乱すように、車の後ろのドアが音も立てずにいきおいよく開くと、中から黒眼鏡をかけた黒服の男がでてきて、あっというまに老人を車に連れ込み、走り出してしまった。
老人は誘拐されたのだ……。