しあわせな老人

しあわせな老人 (7)


 奇妙な三人連れは、そのまま何度も廊下を折れ、どんどんと屋敷の奥へ奥へと進んでいく。と、ふいにとある部屋の前でたちどまると、ふたりの黒眼鏡の男達は、老人ひとりを扉の中へと押し込み、さっさといなくなってしまった。 老人はただ茫然と立ち尽くしているだけであったが、そんな老人のまわりでは、この屋敷の使用人らしき数人の人間が、半ズボンにに半袖シャツ一枚という格好で、忙しく立ちまわっている。
 あっという間に老人の着古した汚着は引きはがされてしまった。ポケットにはさっきの変な男にもらった札束が入っているのだが、驚いて声もでない老人には、もはやどうでもよいことであった。
 老人はそのまま、奥の部屋へ連れていかれたが、その部屋へ入った瞬間、老人はさらに茫然としてしまうのであった。
 そこは、老人の住むぼろアパートの部屋が五つか六つほど入ってしまいそうな浴室だった。所々薄墨が波打っているような模様の入った白い石が一面に照り輝き、それこそプールかなにかとみまごうばかりに大きな浴槽が中央に“でん”と貫禄たっぷりに構えている。
 数人の使用人は、老人が今まで見たことも触ったこともないような、柔らかい泡のたつ香りのない石鹸で、隅から隅まで老人の体を洗っている。あまりのアカに使用人たちも驚いたようだが。
 次に老人は、ぬるぬるとする甘い香りのする白いお湯がたゆたっている浴槽にしずめられた。浴槽は、一面に細かい泡が湧きあがっていた。
 浴槽に気持ちよくつかっていた老人が、やっと正気にもどり、意味のない言葉をなげかけようとしたその瞬間、そばに立ち添っていた使用人たちによってザブリと引き上げられ、そのまま全方向から温風の吹き出すせまい部屋に押し込められた。
 老人の貧弱な体一面に張り付いていた細かい水滴が乾いたかと思った次の瞬間、老人は初めの部屋の中で、今まで触れたこともないような不思議な柔らかい生地で、ていねいに仕立てあげられた黒い服を着せられていた。なんて高そうな背広だ、と老人はとりとめもなく考えていた。老人は燕尾服という言葉を知らなかった。
 いつのまに現れたのか、老人はまたしても黒眼鏡のふたり組に脇の下を抱えられ、広い廊下を通って別の部屋へと連れていかれた。
 今度の部屋はそれほど大きくはないようであったが、それでも老人の部屋がふたつは入りそうな所ではあった。じつに瀟洒な部屋であったが、老人の目にもお金のかかった部屋であることはわかった。
 機械仕掛のようなごつごつした大きな椅子に鏡に向かって座らされ、ぴかぴかと光った白い大きな布を首にまかれ、全身白づくめの奇妙な男が、くしとはさみを手にあらわれたとき、ここが理髪室であることが老人にもわかってきた。
 まさにマシンガンのような音をたて、男ははさみをふるう、そのたびに老人の髪が宙を舞う。なんとか正気にかえった老人は、またもや言葉をかけようとしたが、喉元にあてられた剃刀の刃のゆくえが気になり、とうとう声をかけることができずじまいであった。
 服を着替え、髪を切り、髭をあたった老人は、馬子にも衣装というのか、どうにか一介の紳士に見えるようにはなっていた。
 さすがに今度は脇の下をかかえられることもなく、なんとか黒眼鏡のふたり組についていくことができた。しかし老人は、これからいったい何がおきるのかと心配でならなかった。