幻想

幻想 (3) [END]

 わたしは、ふと目を覚ました。
 そこは、白く煙草の煙がうずまく部屋であった。わたしの心の中に、懐かしく響いてくる音楽が流れている。ああ、ここは喫茶店か。わたしは喫茶店のソファの上で眠っていたのだ。
「おう、気がついたかい」
 カウンターの奥から、そう語りかけてくれたのは、わたしと同じ顔をした、この店のマスターだ。
 カウンターにかけている、わたしと同じ顔をした常連客たちが、口々にわたしを気づかった言葉をかけてくれる。わたしはそんな気のいい連中に声をかけ、ゆらりと店の外へ出た。
 左右に、遥かはるか広がる大通り。ここに住む誰もが、わたしと同じ顔をし、わたしと同じ考えをもち、わたしを絶えず気づかってくれる、そんな街。あぁ、なんとここちよいのだろうか。誰もがわたしの家族であり、誰もがわたしの友人。
 向こうからわたしに近づいてくる、わたしと同じ顔をした新しい友人、彼に声をかけ、どこか空いている家をおしえてもらおう、そこが今日から新しい我が家だ。

(了)

幻想

幻想 (2)

 わたしが恐ろしい感覚にとらわれたのは、それだけの理由からではない。そのみがかれたショウウィンドウに写っているすがた、そのすがたかたちに覚えがないのだ。わたしはのろのろと右手をあげた。ウィンドウの中の人物もゆっくりと、むかって右側の手をあげた。
 わたしの中に、またあの感覚がわきおこる。そのとき、わたしの顔はひきつっていたのかもしれない、かのウィンドウ氏の表情もひきつっていたから。
(“これ”がわたしの顔なのか?)
 奇妙な現実。自分の顔をみまちがえる人間がどこにいるのだ。ここにいるにはいるが……。
(わたしは何という名なのだ?)
 わたしは自身の名前すらわからない、これこそ自分の存在をすら否定する恐怖以外のなにものでもない。しかし今のわたしには、それがさして重要なこととは考えられなかった。何かがずれている、何かが切れている。
 ショウウィンドウから、店内をのぞいてみたが、何の店かはわからない。中は薄暗く、ショウウィンドウの中には、ほこりをかぶったマネキン人形が、恐ろしく古臭い衣装を着せられてたっている。おそらく空家になっているのではなかろうか。それにしてもピカピカのショウウィンドウが異様だ。
 わたしはゆっくりと顔をあげ、なんとはなしにマネキン人形の顔をみた。またあの感覚が、わたしをおそった。どういうことなのだ、なぜこのマネキン人形は、わたしと同じ顔をしているのだ?
 わたしはもう一度ショウウィンドウに、自分のすがたを写してみた。
 同じだ! このマネキン人形と、ショウウィンドウに写ったわたしのすがたはまったく同じだった。いや、ちがう。ショウウィンドウに写ったわたしと、マネキン人形とは、ひとつだけ決定的にちがったところがあった。左右が逆なのだ、まったく正反対なのだ。つまりは、このマネキン人形は、わたしと同じすがたを、顔をしているのだ。
 わたしの頭の中は、ハンマーか何かでなぐられたように、ぐらぐらと大きく揺れ、何かが大きく反響していた。
 わたしはのろのろと歩きだした。あてはない、しかし歩きだした。ここに、このショウウィンドウの前にいるのが恐かった。
(ここはいったい何なんだ!)
 となりの家は、窓もなく、合板でできているような薄い、白く塗られたとびらがあるだけのものであった。そのとびらの手前に、黄色とも茶色ともつかぬ色に変色した、古いポスターがはってある。なんということだ、このポスターに描かれているのは、わたし自身ではないか!
 わたしをつかまえた、あの恐怖とも何ともつかない感覚は、わたしの頭の中をぐらぐらと揺らし続ける。まっすぐたっていられないような脱力感が、わたしを襲う。
 ふと、先程まで遥かかなたに見えた人影がひとつ、わたしのすぐ目の前にせまっていた。奇妙な服を着ているが、スカートをはいていることから女性だとわかる。ほんとうに奇妙な服である、ブラウスは体にぴったりとあい、そでもふくらみにとぼしく、スカートもタイトというほどでもないが、すそがあまり広がってはいない。ふと、その人物の顔をみた瞬間、わたしはたまらずに、そのばにしゃがみこんでしまった。わたしと同じ顔ではないか!
 しゃがみこんだままでも、わたしの目は、その自分と同じ顔をした人物からそらすことができずに、じっとみつめ続けていた。すっと、その人物の目が、ものめずらしそうにわたしの顔をとらえる。その人物の目は、あたかも、わたしの全てをなにもかも、そっくりつつみこみ、飲み込んでしまうように感じられた。
 わたしの目の焦点は、自分ではどうにもならくなり、だんだんと通りの反対側にあってゆく。そこでは、いままさに中にいた誰かが、とびらを押し開け通りに出てくるところであった。とびらの奥から現れた人物は男であった、いや、本当に男なのだろうか? わたしと同じ顔をしているが……。

幻想

幻想 (1)

 わたしはそこへ、どうやってやってきたのだろうか。
 それはまさしく幻想的な世界であった。わたしはどうやら、夢の世界へまよいこんでしまったようであった。それは言葉どおりの意味ではなく、そう思わせるだけの力を、この街はもっていたのだ。
 ここへは地下鉄でやってきた、それだけははっきりとわかっていた。それはただ、漠然としたイメージだけの記憶ではあるが、またはっきりとした記憶でもあるかのように思えた。地下鉄でやってきたのは覚えているが、どこからどう乗って、何という駅で降りたのか、そこのところへくると、まったく記憶が曖昧になってくるのだ。
 “都会”であはずだった。地下鉄駅で人ごみをかきわけた覚えもある。高いビルを見上げ、濃い排気ガスにむせ、見も知らぬ人々であふれかえる顔、顔、顔を、不思議な気持ちでながめていた記憶が、だんだんと自分の、もっとも深い部分からわきあがってくるのを感じていた。
 だがしかし“ここ”は、とても“都会”とは思えなかった。あの駅で降りたのは、あのひとごみをかきわけたのは、あの高いたかいビル群を見あげたのは、本当に今日のこと、ついさっきのことであったのだろうか。
 延々と続くような、ほこりが舞う長いながい大通り。道が遥かはるか続くようにみえるのは、舞うほこりが視界をさえぎってしまうからであろうか。それとも本当に延々と続いていのるであろうか……。とにかく、ほこりで白々と曇った空が広がり、さっきのあの高いビル群の影すらも見えない。
 道の両端は、奇妙な外観をもっていた。建物自体は古く、黒く塗られた壁が家々の間の小さなすきまから見てとれた。通りに面した部分、家々の通りに接した面──白いしっくいが塗られた壁、白くほこりのつもった“桟”の上に乗った奇妙なまでピカピカにみがきあげられたショウウィンドウ、アーチのようにまるいひさしの下にある茶色くかすむ樫の木でできた頑丈なとびら、木枠にはまったほこりでかすんだ窓ガラス、窓も何もなくただこわれかけた白いとびらだけの壁──、色もおちかけた下のとがった木製の看板が、カタカタとかなしげな音をたてていた。人通りはたえて少なく、ひとりふたりかすかにぽつ
りぽつりと……、それも遥かかなたに。
 自分のすぐ左手にショウウィンドウが、まるで何か襲いかかってくるかのような避けがたい威圧感をもって、そそりたっていた。わたしは通りの左端に、ぽつんとたっているのだ。いったいどこからこの通りへ入ってきたのか、うしろを振り返っても遥かはるかに、遠く通りが続くだけで、どこにもそれらしき脇道は見あたらない。
(へんだな、脇道のない通りなんて)
 ふしぎな感覚がわたしを襲った。やはり“ここ”は夢幻の世界なのだろうか、それとも……?
 サラサラとかすかな川の流れる音がきこえてきた。
(川? どこに? あの“都会”の記憶はやはりまちがいか?)
 ふと、わたしは左手にそびえるピカピカのショウウィンドウを、なにげなくかえりみた。とたん、わたしの体を恐ろしい感覚がとらえた。それは“恐怖”“麻痺”“戦慄”“驚愕”それらどれをとっても表現でき、どれをとっても表現すること困難な感覚であった。
 “桟”には分厚くほこりがつもっているのに比べ、異様なまでにみがきあげられたショウウィンドウは、それだけでもどこか不気味で、この世のものではないといった雰囲気が、ありありと感じとれた。