しあわせな老人

しあわせな老人 (13) どのこと? [END]

どのこと?

 新しい年は明けた。
 新年だといっても、さわやかな目出度い話題ばかりではない。
 裏通りの奥の奥、かたむきかけた木造の安アパートの一室で、静かに冷たくなっている老人が発見されたのだ。発見者はアパートの管理人、年始の挨拶によったところ、ブランド物の高級紳士服を着、亡妻の遺影と高額紙幣の束を胸に抱きかかえたまま死んでいる老人を発見、駆けつけた警察が調べたところ、老人が抱えていた札束は、前日にある資産家の家から強奪された紙幣の一部と判明した。その資産家は、用心のために札のナンバーを控えていたのだ。
 しかし、老人の部屋からも、老人の立ち寄りそうな場所からも、残りの紙幣は発見されなかった。老人の人相風体も、昨夜強盗に入られた資産家がのべたものとは、まったくちがっていた。
 しかも老人の死亡時刻や死因は不明、胃の内容物から死亡時刻を特定しようとしたが、食事の時間が不明のため曖昧なままだった。老人が生きたまま無事に、亡妻の写真とともに年を越せたのかは誰も知らない。
 老人は穏やかに、いや、微笑を浮かべながら静かに、そして永遠に眠っている。そう、今も……。
 新年の空は、青く、そしてどこまでもどこまでも、遥かに高く澄んでいた。

しあわせな老人

しあわせな老人 (12)


 三人目の客はすぐに現れた、太った動作ののろまな男だ。
 目の油でテラテラと汚れた分厚い眼鏡ごしに見える重そうに垂れた眠そうな目は、実にいやらしい、見ているこっちまでが眠くなってしまう。
 あなたの性格はああだこうだ、あなたの今までの人生はあーたらこーたら、と例によって例のごとくに適当なことをほざいていると、男は眠そうな目を精一杯に見開いて勝手に感心していた。
「どうも来年は、食べものに不自由しそうです……」
男の弱点はこれだった。
 慌てたように公園へ、よたよたと皮下脂肪の塊を揺らしながら駆けてゆく後ろ姿が、実に痛々しかった。

 四人目の客は、どっしりと貫禄のある、大会社の社長風の紳士。着ている服などから見ても、かなりの金持ちらしい。
 この紳士、何か悩みでもあるのか、見料よりもかなり多い、高額紙幣を二枚も放り出した。
 占い師は張り切って得意の観察と推理で、もっともらしくお世辞をまぜて、自説を得々とのべ、来年の運勢は登り調子でよいでしょう、ただし今年から引きずった問題がこじれて足を引っ張るでしょう。と悩みがあるような態度からはったりをかましたところ、みごとに急所をついたらしい、
「先生、その問題を、なんとか回避する方法はないのでしょうか?」
と聞いてくる。しめたとばかり、例のまじないを教えてやると、ありがとうとばかりに、さらに高額紙幣をもう二枚置いていった。
 しかしどうしたのか、紳士は黒塗りの高級車に乗ると、さっさと公園とは反対方向の、西の住宅街へ車を向けていってしまった。

 さて、五人目の客は、いかにも怪しげな頬に傷をもつ男。辺りをきょろきょろ見回し、何かに脅えている様子。どこからどう見ても、そこいらのやくざ者。さらにこの男も、黒いごつごつしたかばんをごそごそやると、高額紙幣を二枚投げ出した。占い師は、この男、何かやらかして逃げているらしい、と見当をつけた。
 しかし高額紙幣を二枚ももらておきながら、さきほどの紳士とは打って変わり、あなたを何か黒い影が追いかけている、だとか、平和に来年を迎えられるかどうかわからない、などといって散々脅かし、終いには狭い部屋の中で狂い死にするかもしれない、などどいってやると、男はわけのわからない言葉をわめき散らしながら、占い師の襟元をつかんでゆさぶった。
「ちょ、ちょっと。し、しかし助かる方法はある!」
と例のまじないをおしえると、男は何に感激したのか涙を流さんばかりに高額紙幣をもう二枚置いて、公園へ向かってどたどたと走りさっていった。

 しばらく客がとだえると占い師は、さて、とばかりに店じまいを始めた、どうやら家で一杯やりながら年越しのTV番組でも見るらしい。
 すでに陽は暮れていた。

しあわせな老人

しあわせな老人 (11)


 大通りのいつものところに場所をとっていると、さっそく客がやってきた。 始めの客は、はっとするほど笑顔の美しい女性、いや少女であった。
 占い師は、この少女をよく知っていた。裏通りに向かう路地のわきにある喫茶店のウェイトレスだ。あの喫茶店は正月も一日休むだけで、あとは平常通りの営業というから、ごくろうなことだ。
 少女はまだあどけなさの残る涼しい目許をほころばせ、可愛らしく珠を転がすような、外見のイメージにぴったりとあった声でいった。
「すみません、私の来年の運勢を見てほしいんですけど」
 占い師は、もっともらしくガラス制の水晶玉もどきをに手をかざすと、おなじみのはったりを──かなり好意的に──かました。それからかなりひどい占いをやったあと、
「あなたの悪い運勢を立て直すには、老人に親切にすることです。そうですね、あっ、見えました、ちょうどこの通りの裏にある公園です、その付近に一人の老人がいます、その人があなたの来年の運勢の鍵を握っています。そのひとに何かひとつ親切をしなさい、そうすればあなたの来年の運勢も上昇カーブをえがくでしょう」
 始め心配げな顔をして聞いていた少女も、占い師のいんちきなまじないを聞くと、ほっと安心した表情にもどった。そして小さな声で礼をのべると、見料をわたしてたちあがった。
「あっ」
 少女は時計を見てそうさけぶと、ばたばたと急ぎ足にかけていった。占い師が何気なく時計をのぞくと、長針は十一と十二の間で、限りなく十二よりを差していた。五十九分だ。きっとアルバイトにぎりぎりなんだなと、ひとりうなずく占い師であった。

 その日ふたりめの客は、きりりとしたまだ若い青年であった。
 彼は絶えずにこにと笑みを浮かべていたが、占い師にはその笑みが、ただの中身の無い表面だけのものだということが、長年の観察経験からわかっていた。
(いやなやつだ)
 それが占い師の、彼にたいする第一印象であった。
「すみません、私の来年の運勢を見てもらえませんか」
(いやな声だ)
 それが占い師の、彼にたいする第二印象であった。
 占い師にはよくわかっていた、この男は女のためだけに生きているのだと、女性に魅力的に見えるようにと、ただそれだけを考えていたために、見事に自分の心を隠すための、感じのいいかぶり物のような外観を手に入れたのだ。
「うむ、あなたは来年、極端に女性との縁が薄くなっています……」
そういったときの彼の慌てようといったら、大通りの向こうからでもよくわかるほどであったろう。
 占い師はいい気味だとばかりに、更にとんでもない占いを──疑われない程度に──散々かましながら、十分に彼の反応を楽しんでいた。
 そろそろそんな遊びに飽きたころ、おもむろに例のまじないを教えてやると、彼は嬉々として公園へ走り去っていった。その喜びようといったら、大通りの向こうからでも十分に楽しめるものであった。占い師は自分の目の確かさに、ニタニタといやらしい笑いを浮かべていた。

しあわせな老人

しあわせな老人 (10) あのこと

あのこと

 年末は稼ぎどきだ。
 その占い師は、そう考えていた。十二月三十一日のことだ。
 占い師は公園のわきの路地を、大通りに向かい歩いていた。
 この占い師は、この街ではよく当たると評判の“いんちき”占い師であった。
 彼の占法はこうだ、まず客をよく観察する。客の仕草、態度、くせ、表情、服装、髪型、肌のつや、指の形、等々。
 きょろきょろと辺りを伺うネズミのような仕草、いそいそと落ち着かない態度、たえず手を握ったり広げたりしているくせ、やせこけて貧しそうな表情、まったくなりふりかまわない服装、一本のみだれもなく撫でつけられた髪型、ぴかぴかと照り輝いている肌、奇妙にひねくれた指先。
 まったく落ち着かない人間、貫禄たっぷりの尊大な人間、どうしようもなくおっちょこちょいでどじな人間、感情を表にあらわさないクールな人間、どんな時にも笑っている人間、上から下までコーディネイトしたスタイルにまったくはまっていない人間、鋭い目をした大人物を思わせる人間、ただのチンピラな人間。
 そこからは、ありとあらゆる情報が得られる。それらの情報をうまく組み合わせ、整理し、推理して得たものを、相手に投げてやると、なぜ自分のことをそんなに詳しく知っているのか? といった驚いた顔を、十人中八、九人の人間が必ずする。これはシャーロック・ホームズという名探偵に教わったことである。
 次に、何か悪いことがおこると散々脅かし、そこですかさず、これこれこういうことをすると、災いを消すか、小さくすることができると言ってやる。
 災いを消すまじないは、占い師のその日のインスピレーションによって決まる。例えば、その日ネコを見掛けたならば、その日の客にはこう言ってやる、ネコを見掛けたらすぐに逃げなさい、これを一週間なら一週間続けなさいといったぐあい。次の日イヌを見掛けたならばこう言う、イヌを見掛けたら追いかけていってイヌの背をなでなさい、といったぐあい。
 人間なんて単純なもので、それだけで偉大な占い師か何かのように、つごうよく勘違いしてくれる。
 この占い師はそうやって、名声を広めることに成功したのだ。
 さて、今日のまじないは何にしてやるかな、などと考えているとき、ふと公園のベンチに腰掛けている老人が目に入った。毎日毎日同じ場所に座っている薄汚れた老人だ。そのとき占い師の頭に、ふいに
(よし、この老人をしあわせにしてやろう)
という考えが浮かんだ。

しあわせな老人

しあわせな老人 (9)


 紳士の話は実に教養ゆたかなものであった。めずらしい海外の話や、この食堂に掲げられた数々の絵画やその他の芸術の話、さらには人生についての話や、老人のまったくわからない政治の話などもあった。
 紳士は話のあいだから、老人がクラッシック音楽が好きだと知ると、さっそくいままで静かにかかっていた音楽をやめさせ、いろいろとクラッシックのレコードをかけて聞かせてくれた。老人が若いころ聞いただけの懐かしい曲や、今までまったく聞いたことのなかった曲──それは涙がでるほど美しい曲であった──がながれた。
「おじいさんはどんな曲がお好きですか?」
「はぁ、そうですね、その静かなピアノの曲なんかが……。そのなんていうのかは忘れましたが……」
 老人には思い出の曲があった。まだほんとに若いころ、結婚する前に亡妻にプレゼントされた一枚のレコードがあった。その中の一曲が実に静かで美しいピアノの曲であったのだ。今ではそのレコードもどこへいったのか。思えば随分と昔のことである。
「ピアノ曲ですか。ピアノといえばモーツァルトやリスト、あとやはりショパンですか」
 老人は、はっとした。
「あぁ、それです、そのショパンとかいう人の……」
 そう聞くと紳士は、さっそく使用人に合図をして、屋敷にあるショパンのレコードを全部もってこさせたようであった。次々にかかるショパンの曲に老人はうっとりと耳を傾けていた。その中には老人の思い出の曲もあった、老人は涙を流しながらその曲に聞き入っていた。老人の思い出の曲は「夜想曲」といった。
 食事がおわり、ここ数年味わったことのない楽しいひとときを過ごした老人は、別れを惜しむ紳士に礼をいい席を立った。
 控えの間で使用人が抱えてきた老人の服を見るなり紳士は、
「おじいさん、これでは寒いでしょう」
といい、新しい普段着を用意してくれた。老人の目には、どうしてもよそゆきの服にしか見えなかったのだが。
 老人が服を着替えると、使用人から老人の持ち物が返された、その中にはもちろん、あの変な男からもらった札束も入っていた。紳士は老人のお金にはいちべつもくれなかった。
 玄関ホールで床に頭がつくのではないかと思えるほど紳士に礼をのべた老人は、来るときとは反対に、ゆっくりと車の後部座席にのりこんだ。今度は黒眼鏡のふたり組は乗り込まず、助手席の男と運転手との三人だけの道のりであった。
 老人を送る車が走り去ったあと、紳士はぼそりとつぶやいた。
「これでよいのかな?」

 助手席の男が自宅まで送ってくれると言っていたのを、無理にことわって、例の公園で降ろしてもらった。
 老人が公園に降り立ったとき、辺りはすでに夜中であった。空は遥かかなたまで透き通り、満天にぎっしりと敷きつめられた星々が、いつ降りそそぐのかと思われるほどに白く輝いていた。
 老人は思う。
(あぁ、今日はなんと素晴らしい一日だったことか、きっとあした、いや来年は素晴らしい年になるにちがいない、さっきまで死にたいなんて考えていた自分が、どんなに愚かだったことか)
 老人は変な男にもらった札束をじっと胸に抱えながら、静かに家路についた。あと数時間で新しい年だ。

しあわせな老人

しあわせな老人 (8)


 そこはまた、とてつもなく巨大な部屋であった。あの公園が五つか六つも入りそうな部屋で、天井には玄関ホールのものにもまけないほどのシャンデリアが下がっている。室内は所々絵画が掛けられ、床にはちりひとつ落ちていない。部屋の中央には、巨大な部屋とはあまりにも不釣り合いな六人掛けほどの小さなテーブルと、向かい合ったふたつの椅子があるきり。いや、ひとつの椅子には年の頃四、五十のこちらは本物の紳士が腰掛けていた。
 奇麗に撫でつけられた半白の髪、広い額と、知的な瞳、すらりとした鼻、薄く微笑みをたたえた唇、一部の隙もなく着こなされた燕尾服、紳士はこの部屋と見事に調和した芸術そのものであった。
「やぁ、おじいさん、ようこそいらしてくださった。どうぞどうぞ、そちらの椅子へ」
 紳士の声は、低く太く甘く、しっかりしたアクセントが耳に心地好い。
 老人はまたもや茫然としていたため、紳士のすすめる椅子に無理矢理に座らされてしまった。
 老人が椅子に座るが早いか、どこからあらわれたのか数人の給仕がテーブルのまわりを忙しげに立ち働いている。
「では、おじいさん、さっそく食事にしましょう」
 紳士はそういうと、甘い香りのする血のように赤い飲み物の入った、透き通ったグラスを手にとった。
「あ、あの、これはいったい……」
 紳士は、老人がそう声をかけるのを、
「いや、話はあと、あと」
と、意にもかいさずに、さっさと乾杯をすませた。
「いや、しつれいした。おじいさんもいきなりのことで、さぞ驚かれたでしょうが、まぁ、金持ちの気まぐれだとでも思って付き合ってください。帰りもきちんと車で送らせますので」
「はぁ……」
 老人はとにかく、ここで逆らうのはあまり賢い方法ではあるまいと考え、なんとかお金持ちのお遊びだと考えることにした。
「しかし……」
と、老人は目の前におかれた、いかにも手の込んでいそうな何がなんだか、わけのわからない前菜を見つめながらいった。
「その、このような高価な食事は生まれて初めてでして……、あの、その、なんですか、どうも、胃のやつがびっくりして、あんまりびっくりしすぎるもんで、その、ぽっくりといっちまいそうな……」
「はははは、おじいさん、あなたはおもしろいかただ、大丈夫ですよ、これはそんなに特別な料理でもありませんから。さぁ、いただきましょう」
 あまりにとんでもないことがつづいたため、次々に運ばれてくる高価な料理の味は、老人にはさっぱりわからなかった。それに食事のマナーなどもさっぱりわからず四苦八苦していたのだが、紳士はそんなことはまったく気にしているようではなかった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (7)


 奇妙な三人連れは、そのまま何度も廊下を折れ、どんどんと屋敷の奥へ奥へと進んでいく。と、ふいにとある部屋の前でたちどまると、ふたりの黒眼鏡の男達は、老人ひとりを扉の中へと押し込み、さっさといなくなってしまった。 老人はただ茫然と立ち尽くしているだけであったが、そんな老人のまわりでは、この屋敷の使用人らしき数人の人間が、半ズボンにに半袖シャツ一枚という格好で、忙しく立ちまわっている。
 あっという間に老人の着古した汚着は引きはがされてしまった。ポケットにはさっきの変な男にもらった札束が入っているのだが、驚いて声もでない老人には、もはやどうでもよいことであった。
 老人はそのまま、奥の部屋へ連れていかれたが、その部屋へ入った瞬間、老人はさらに茫然としてしまうのであった。
 そこは、老人の住むぼろアパートの部屋が五つか六つほど入ってしまいそうな浴室だった。所々薄墨が波打っているような模様の入った白い石が一面に照り輝き、それこそプールかなにかとみまごうばかりに大きな浴槽が中央に“でん”と貫禄たっぷりに構えている。
 数人の使用人は、老人が今まで見たことも触ったこともないような、柔らかい泡のたつ香りのない石鹸で、隅から隅まで老人の体を洗っている。あまりのアカに使用人たちも驚いたようだが。
 次に老人は、ぬるぬるとする甘い香りのする白いお湯がたゆたっている浴槽にしずめられた。浴槽は、一面に細かい泡が湧きあがっていた。
 浴槽に気持ちよくつかっていた老人が、やっと正気にもどり、意味のない言葉をなげかけようとしたその瞬間、そばに立ち添っていた使用人たちによってザブリと引き上げられ、そのまま全方向から温風の吹き出すせまい部屋に押し込められた。
 老人の貧弱な体一面に張り付いていた細かい水滴が乾いたかと思った次の瞬間、老人は初めの部屋の中で、今まで触れたこともないような不思議な柔らかい生地で、ていねいに仕立てあげられた黒い服を着せられていた。なんて高そうな背広だ、と老人はとりとめもなく考えていた。老人は燕尾服という言葉を知らなかった。
 いつのまに現れたのか、老人はまたしても黒眼鏡のふたり組に脇の下を抱えられ、広い廊下を通って別の部屋へと連れていかれた。
 今度の部屋はそれほど大きくはないようであったが、それでも老人の部屋がふたつは入りそうな所ではあった。じつに瀟洒な部屋であったが、老人の目にもお金のかかった部屋であることはわかった。
 機械仕掛のようなごつごつした大きな椅子に鏡に向かって座らされ、ぴかぴかと光った白い大きな布を首にまかれ、全身白づくめの奇妙な男が、くしとはさみを手にあらわれたとき、ここが理髪室であることが老人にもわかってきた。
 まさにマシンガンのような音をたて、男ははさみをふるう、そのたびに老人の髪が宙を舞う。なんとか正気にかえった老人は、またもや言葉をかけようとしたが、喉元にあてられた剃刀の刃のゆくえが気になり、とうとう声をかけることができずじまいであった。
 服を着替え、髪を切り、髭をあたった老人は、馬子にも衣装というのか、どうにか一介の紳士に見えるようにはなっていた。
 さすがに今度は脇の下をかかえられることもなく、なんとか黒眼鏡のふたり組についていくことができた。しかし老人は、これからいったい何がおきるのかと心配でならなかった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (6)


「こんにちは、おじいさん。いや、こんばんはかな」
 声をかけたのは、助手席の男である。
 先程は暗くてよくわからなかったのだが、こうして車内に入ってみると、なかなかどうして、実に豪華な車であった。
 シートは総革張りで、クッションもやわらかく、車外の振動もまったく伝わってこない。老人はしばらく、この車は止まったままなのだと思っていたほどだった。
「あ、あなた方はどなたですか? なぜ私にこんなことを……」
 車内には、老人以外に四人の人間がのっていた。助手席の男と、後部座席には老人をはさんでふたりの男、それと運転手……。
 車を運転しているのは、実直そうな男、黒い運転手の制服を着、わき目もくれずにもくもくと運転している。
 老人をはさんでいるのは、黒服、黒眼鏡のいかつい無口で無表情な男たち。
 助手席の男は、すきのない鋭い目をした三十歳代なかばのエリート・ビジネスマンといった感じの男だ。
「おじいさん、これからあなたをある場所まで案内します。おとなしくじっとしていれば痛い思いはしなくてすみますよ」
と、助手席の男は軽く脅かす。
 老人はしかたなく、じっとおとなしくしていることにした。
 車は西へ向かっているようであった、だんだんと高台へ登っていく。暗闇の中で街灯に切り取られた車外の景色は、次第に落ち着いた住宅街のそれへと移っていった。老人の住む下町とはがらりとおもむきのことなる高級住宅街だ。
 驚くほど長い塀を横目に、次第に街の奥へ入っていく。
 時々、鬱蒼と茂る木々の間から、びっくりするほど大きな建物の輪郭が垣間見える。
 人通りのない大きな通りを走っていた車は不意に、ある門を通り抜けた。そこはこの辺りでも、特に大きいのではないかと思われる屋敷の敷地であった。
 細かなところまで手入れのゆきとどいた暗い木々のアーチを抜けると、何百ものスポットライトを浴び、光り輝く白い邸宅が目の前にそびえた。
 玄関の前の車寄せに車が横着けになると、老人はふたりの黒眼鏡に車外へ引っ張りだされた。ふたりは、老人の脇の下に手をやり、小荷物かなにかのように軽々とぶら下げながら、見上げるような玄関をくぐった。そのままの姿勢でつかつかと玄関ホールを抜ける。天井には、夜空の星々を集めて作ったような、人々を威圧するほど大きなシャンデリアが輝きながらぶら下がっている。
 老人はもう唖然として、これからどこへ連れていかれるのかと辺りをきょろきょろと見回していた。

しあわせな老人

しあわせな老人 (5)


 しばらくして、老人はまた、ひとり公園のベンチに座っていた。結局、さっきの青年は、何のために老人をさそったのかわからなかった。話らしい話もせず、コーヒーを飲み終るとさっさと勘定をすませて帰っていってしまった。
 しかし、老人はしあわせだった。見ず知らずの人が、自分に対して親切にし
てくれるのだ、
(この世も、まだまだ捨てたものじゃない)
と老人は思う。さっきまでもう死んでしまおうかとも考えていたのに……。
 ひそかな、そして幸福感に包まれた静寂は、一分と続かなかった。どたどたと、大きな足音をたてて、大通りの方から男が走ってきたのだ。その男は落ち着きのない様子できょろきょろと辺りを見回していたが、やがてベンチに腰掛けた老人を見つけると、ニヤリといやらしい笑いを満面にうかべ、またもやどたどたと走ってきた。
 男は、ごわごわとしたかたそうな髪をしていた、頬に大きな傷をつけ、真っ黒な顔にぼつぼつと無精髭をはやしているのが、街灯の弱い明かりに見える。目は充血し街灯の明かりがギラギラと反射している。手には大きな黒いかばんをもち、ニヤリとした汚い笑い顔でこちらへ走ってくるのは、あまり気持ちのよいながめではない。
「へへ、じいさん、さびしそうだな」
 男はそういうと、手にもった黒い大きな鞄へ手をつっこみ、
「ほれ、これをくれてやるよ。楽しく新年を迎えるんだな」
と、大きな札束を取り出すと、老人に投げやり、そのままどたどたと裏通りへ走りさっていった。
 老人はただ茫然として、手もとの札束を見ていた。こんな大金は、しずかに生活してきた老人にとって、まったく初めて見るものであった。

 陽はとうに暮れていた。
 老人は、せめて新しい年は、自分の家でおばあさんの写真といっしょに迎えようと思い、ベンチからたちあがると、とぼとぼと裏通りに面した公園の出入口にむかって歩きだした。上着のポケットにはさきほどの札束を入れたまま……。
 ちょうど公園を出かかったとき、猛スピードで走ってきた黒いぴかぴか光る車が、急に老人の目の前でとまった。
 あたりの空気をかき乱すように、車の後ろのドアが音も立てずにいきおいよく開くと、中から黒眼鏡をかけた黒服の男がでてきて、あっというまに老人を車に連れ込み、走り出してしまった。
 老人は誘拐されたのだ……。

しあわせな老人

しあわせな老人 (4)


 喫茶店は公園とは目と鼻の先、細い路地をまたげば小さな裏玄関がある。
 カラン、と心地好い音をたてた重い樫の扉には、きれいにカットされたガラスがはまっていた。もう大掃除をすませたのか、扉のガラスはまるでその空間に氷がはってしまったのかと思うほど奇麗に透きとおっていた。
「いらっしゃいませ」
 抜けるように美しい顔だちのエプロン姿の少女が、にこりと可愛く微笑み、やさしく声をかけてくれる。
 店内は暖かく、コートのない老人をやさしく迎え入れてくれた。木目の際立った深い色あいのテーブルとやさしくカーブしたおそろいの椅子、天井で回る大きな羽のファン、歩くたびにごとごとと音をたてる木地のすれた床、頑丈な作りのカウンター。人の少ない大晦日の店内は、それでも生き生きと木目の品々が深い年月をかえりみるように、老人に語りかけてくるようだ。
 カラン、と樫の扉が音をたてる。ふたりにつづいて、太った男が店内に入ってきた。青年は太った男にせかされるように、つかつかと公園の見える窓際へいき、さっさと椅子へ座りこんだ。老人はその向いがわへ、おずおずと腰を下ろす。
「おじいさん、なにがよろしいですか? やはりコーヒーですかね。
 あ、すみません、ここ、コーヒーふたつね」
 青年は老人の好みも聞かず、さっさと注文してしまった。
 ににこと笑う青年と、おどおどと落ち着かない老人。しばらくふたりは、何をするでもなく、窓の外にみえる公園の裸になってしまった木々をながめていた。
 カタリ、と軽い音をたてて青年の目の前にコーヒーが置かれる、木漏れ日の中ゆらゆらと波うつ春の湖面を思わす、濃く香り高いコーヒーだ。そして、老人の前には白い湯気を季節外れの入道雲のように漂わすコーヒーと、雪に覆われた山を思わす小さなショートケーキが……。
「えっ」
 老人はおどろいて顔をあげる。
「すみません、これ、ケーキはたのんでないよ」
 青年もけげんに言い、顔をあげる。
「いえ、これは、こちらのおじいさんへのサービスです」
 にこりと微笑んだウェイトレスは、先程の美しい少女だった。少女はすこしはにかんだように微笑むと、そのまま小走りにかけていった。ごとごとと床が音をたてる。
 青年はかまわず、コーヒーをブラックでひとくち飲み、老人に何か話かけようと顔を上げた途端、はっとおどろいてしまった。老人が涙を流していたのだ。
「お、おじいさん。いったいどうしたのですか」
 青年が心配そうに声をかけると、
「い、いえ。こんな、こんな、見ず知らずのかたに、こんなに親切にしていただいて。こんな、小さな、薄汚れたじじいに……」
 そのとき、老人の後ろの席に座っていた男が、振り向きざまに、老人にそっとハンカチを差し出した。
「おじいさん、どうぞこのハンカチで涙をぬぐってください」
 その男は老人たちふたりの後から店に入ってきた、あの太った男だった。