あるてみす

あるてみす (3) 第一章

  1

 ある地方の中心的な都市、人間達が鬱蒼と生い茂り、巨大なビル群が連綿とそびえる大都会という山の峰。その都心部を、こちらは本物の山間部へと少し外れた小さな一角に、その街はあった。まるで眼にも止まらぬ菌類のように、細々と人間が生活する小さな街。その街の中心部には、ままごと遊びのように小さな商店街が申し訳程度にならび、その向こうの空に銭湯の煙突が一本、ぽつりと立っているだけで、あとは古くからある一戸建の家々と小さなアパートが軒を連ねるようにならんでいる、ただそれだけの住宅街。もちろんその頃にはマンションなどというものは、都心部へと出て行かなければ拝めないような時代だった。都会の喧騒から完全にシャットアウトされた静かなベッド・タウン、夜になると人口が昼間の倍以上に膨れあがるような、都心と同じようにひねくれた、不自然な形でしか存在できない小さな街、そこが私のホーム・タウンだった。駅からもバス停からも、銭湯やもちろん商店街からも離れた小さな一件のおんぼろアパートの二階の一室が、私と両親が生活する空間。特に取り柄とてない共働きの両親は、何とか職を失うこともなく、毎朝毎朝、都心へと出勤してゆく。両親共に働いていても、なかなか生活は楽にはならず、そのアパートを出て、新たに部屋を探すなんて思いもよらなかった。その部屋での三人だけの暮らしが、もう十二年間続いていた。
 本当に狭いアパートだった。いつ頃建てられたのか、古びた木造の小ぢんまりとした造り、長い間人間の足元に横たわりニスがはげ木目もみえないくらい黒く汚れたギシギシときしむ階段、建てつけが悪くガラスがゆがんだ木枠の窓、昼間でも薄暗い足元を照らすくすんだ裸電球、不精を決め込んだ住人がためにためた洗濯物と洗い物のすえた匂い、ちょこんと玄関わきに積まれた縁の欠けた出前の丼。今でも眼を閉じると、ありありと存在感を持って思い浮かべることができる。その時既に築三十年以上は経っていたのは確かだ。もちろん今は存在すらしていない。二、三年前、友人の結婚式の帰りに偶然通りがかった時には、確か跡地には十五階建程の大きなマンションが建っていたのを覚えている。
 私が住んでいたのは、そんな街にある、そんな小さなアパートだ。何処にでもあるささやかな、住民が落ち着いて暮らせ、身辺を騒がすような事件や事故も極端に、いやほとんどない、そんな街。その街の中のほんの一部分を占める町内と、小さな2DKのアパートの一室が、それまでの十二年間の私の人生にとっての現実世界の全てであった。目を見張るような大自然の景観も、果てなく続く青い海原も、記号と化した人間たちがうごめくビル街の谷間も、私の世界にはなかった、それらはテレビや写真の中に封じ込められた別世界の風景、非現実の世界だった。社会科見学のバスの窓から眺めた街の風景も、修学旅行で出かけた古都の風景も、誰かが切り取ったような、ひどく観る者を意識した景観、それらも一時的な架空の世界の物だった。
 世界はとても小さかった、そう、私にとっては……。

あるてみす

あるてみす (2)


 私は“群集”をすり抜け、たどり着いた交差歩道橋の上から、真下の交差点を見下ろし、途切れもせずに、ひっきりなしに走りまわる車の流れを見つめていた。私の後ろを無関心な人々の列が、細く途切れがちなせせらぎとなって通り過ぎてゆく。私は「ほぅ」とひとつ大きな長嘆をもらす。
 さすがにこの歳になると無理な徹夜は体にひびく。完徹ではなかったが、それでも一日平均一時間の睡眠、さらに土日返上でここ一ヶ月ほど休みなし。たまった疲れは、完全に癒されることはなく、ただ倍増するように積み重なっていってしまう。しかし、プロジェクトは遂に峠を越えた、今日は帰ってゆっくりと休める。仕事から開放されたためか、張り詰めた緊張の糸が切れたように、それまでの疲労がいっきに吹き出したようだ。ぼんやりとした意識を振り払おうと、私は左右に思いっきり頭を振り、形だけ首にぶら下げたネクタイをゆるめた、そしてゆっくりと空を見上げる。

 月だ……。

 かなり低い位置だったが、夕暮れ前の南の空に、林立する巨大なビルの谷間に、都市計画者やビル設計者、ましては都市開発を担う役所の担当課の課長などが思いもよらなかったように、ザックリと美しく切り取られた、大都会のただ中の自然の空に、ポツリと蒼白い半月が浮かんでいた。

 私の心は急速に少年時代へと引き戻されてゆく、あの懐かしい海辺へと。
 思い出すのは、あの真夏の夜。あの暗く静かな日本海の波音。そして、夢の世界へさまよった、あの幻想の出来事……。ベックリンの絵のような、ゴヤの黒い絵のような、超越された現実を夢想と夢幻の中に描く、幻視者の幻の論理の上になりたった怪しい夢、哀しいまでに現実を思い起こさせる、条理的でいてなおかつ不条理な“夢”の出来事を。そう、きっと夢なのだ、あの思い出が現実であるわけはなかった。しかし、それからの私の人生を完全に変えてしまった夏、こうやって徹夜明けの重い体を引きずって月を見上げているのも、すべてあの夏の夜が始まりだった。思い出されるのは、そんなはかない別の世界で起きたような出来事と、数え切れない豊かな生命の誕生……、そしてその限りない死滅……。
 私が初めて海というものを目の当たりにしたのは、そう、今からもう二十年近く以前のことになる。その年に知り合った新しい友人とともに、その海へ出かけた。
 日本海に面した小さな海水浴場で、三方を松林にかこまれた小さな海の家。静かな波打ち際が続く、ぽっかりと海に突き出した海岸線。それは私が中学へ入学した年の夏のこと、私はまだ十二歳だった。
 私はそれまで海を見たことがなかった。

あるてみす

あるてみす (1) プロローグ

  プロローグ

 駅の改札口を通り抜け、仕事帰りの雑踏をかき分けながら、やっとの思いで空の下へはい出し一息ついた。八月の初め、うだるように暑いある午後のことだ。
 人、人、人で一面に塗りこめられた駅前広場、そこに個人は見えない。ひとつの“群集”として、整然と静かに波打ち流れる人の海。誰もがただまっすぐに前だけを見つめ、驚くほどの速度で歩み続けている。彼ら(いや、我ら)無秩序な“群集”の流れをせき止めるものは、ただ奇妙に秩序だった動きを見せる自動車の流れだけだった。歩行者用信号機が赤く光る、そのつど“群集”は奇妙な軋みを発したかのように動きを奪われ、流れが停滞する。歩行者用信号機が青く光ると、“群集”はホッと開放感にあふれた吐息を一つもらして、また新たな行軍をスタートさせる。季節がら日はまだ高く、黒々とした“群集”の頭を、ひとつひとつ照らしつけ、体内から汗となって流れ出した多量の水分が、ムッとする水蒸気となり、駅周辺一体を押し包み、とぐろを巻くように空へと立ち昇ってゆく。そして、“群集”は駅から離れるにしたがい、ある一団はタクシー乗り場へ、またある一団はバスセンターへ、さらにある一団が徒歩でと、散り散りになりながら、徐々に都市の中へ拡散しはじめる。駅前の大通りをひとつ隔てただけで、すでに“群集”は跡形もなく消え失せ、ただ帰りを急ぐ、あるいは繁華街へと向かう、またあるいはこれから賑わう夜の街へと消えていこうとする個々の人間が、ひとり、ふたりと数えられるまでになってしまった。
 駅前広場は相も変わらず“群集”の最過密地帯であり、流れをさえぎるようにぽつりぽつりと人待ち顔にたたずむ“個人”は、時折“群集”から白く冷たい視線を浴びる。カードサイズのチラシがゴミとなって溢れかえる公衆電話ボックスは、個人用の電話がいくら普及したとしても、完全に解放されることはなく人で塞がれ、“群集”から一時的に切り離された架空のプライベート・スペースを提供する。駅周辺に信じられないほどの間隔で隔てられ設置された灰皿の周辺では、“群集”から切り離された“小さな群集”がもくもくと白い煙を掃き出しつづけている。
 “群集”は一個の生命体であった。所々に隔離されたように見える小さな集合体をも飲み込む、一個の巨大な生命体だ。“彼”の意図は解らない、しかし“彼”は隠されたある大きな目的へむかって、一身に身をもだえさせているようにも見える。しかし、周辺部から押し寄せる“個々”と“拡散”の侵食により、“群集”は時間とともに衰亡の道を進んでいた。

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (11) 第七節 [END]

   7

 相変わらずY字路を通る小学生達は元気いっぱいで、学年最初の学期をはりきって通学している。その中にあの五郎君の姿が見える。すっかりおとなしくなり、はしゃぎ回ることはなくなったようだ。彼が入院する前、私はここから彼を見ていた、今とはまるで違って、周りの同級生にいたずらしながらはしゃぎ回る彼を。
 その少し後ろに見えるあの子、右足に義足をはめた男の子は、いつものように嬉々として元気いっぱいに歩いている。私は思わずニヤリとしてしまう。
 そうあの日、ぼんやりとY字路を見下ろしていた私の目の前で、信じられないことが起きたのだ。あの義足の男の子が、きっと同級生なのだろう、長い髪のかわいい女の子といっしょに帰宅している途中だった。私が暖房でむっとした室内の空気を入れ換えようと、窓の端をほんの少しだけ開けた時だった、彼が不自由な右の義足に体重をかけたその瞬間、後ろから駆けて来た別の男の子が、その彼の全体重を支えている義足を思いっきり蹴飛ばしたのだ、彼は後ろざまに倒れ、いっしょにいた女の子が駆け寄る。その瞬間、私の中で時間が止まった。私は我が目を疑った、子供の、これが子供のやることなのかと……。
 そして聞こえて来たのだ、あの声が。そのころまだ名前さえ知らなかったその子供、あの子の義足を蹴飛ばした五郎君が、とても子供の声とは思えぬほどに憎悪を込めたしわがれた叫び声で、
「おまえ、片足のくせになまいきだぞ!」
と怒鳴りちらすのを……。
 その五郎君が入院してきたしばらく後、私は一晩自宅へ帰る許可を得た。そのころ五郎君は何も知らずに病院で出来た新しい友達とともに五人でJ君のもとを訪れるようになっていた。私はそんな五郎君を後目に公然と自宅へ帰ったのだ。その夜家族の目を盗み、慣れない車椅子を転がしながら自宅の納屋へとたどり着くと、納屋の奥にしまい込まれていた埃だらけのヒ素の瓶を探し出した。以前、ミカンの甘味を引き出すために使われていたものだ。今では実験的に無農薬化を推し進めている父の意向で、数年前から使われずに、納屋の奥にしまってあったのだ。私はホコリだらけの薬瓶から、ほんの少量、こっそりと小瓶に移して病院に持ち帰り、J君のもとへ集う子供達の一人、五郎君をこっそりと殺すチャンスを待っていたのだ。計画を練っているのは実に楽しかった。
 そこにあのケーキだ、J君がケーキを買ってきた時、私はその目的をしっかりと理解していた。彼が自分の創作童話の第二話を語り終えたすぐ後だったのだから。
 病室内のほかの三人は、しょっちゅうベッドから離れていた、J君も病院内の探索にいそがしかった。私はそれこそ決死の覚悟で、腕だけを使いベッドから降り、あのケーキにヒ素を振り掛けるべく、汚れたリノリウムの床を這っていった、おかげで腕は痛くなるわ足の状態は悪くなるわで、足の治癒が若干遅れてしまった。
 しかし何とかやりとげることができた、自分のベッドに戻った時にはもう、生きて行くのは無理なのではないかと思うほど疲れ果てていた。
 だがなんということか、五郎君は生き残ってしまったではないか。私が薬学に暗かったためか、それともあの子の運がよかったのか。とにかく、もはや五郎君は私の手の届かないところにいったのだ、とはいえ、あの分ならもうあの義足の男の子に手を出すこともないだろう……。
 J君にはすまないことをしてしまったと思う、本当に。この事件での一番の被害者は彼だったのかも知れない。
 彼の姉は今、私の実家で私とともに、ミカンの栽培の研究をしている──。

(了)

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (10) 第六節

   6

 三つの病棟に挟まれたY字路には、いつの間にか小さな粉雪が舞うようになっていた。今年初めての雪、そして今冬最後の雪……。強い冬の風に吹かれ舞う粉雪は、ここから見る限りとてもあの冷たさを想像することはできず、とても暖かそうに見える。
 J君は死に、同室のほかの三人が退院し、私以外のベッドはすっかり新しい主の下で、乾いたきしみを発している。五人の子供達は雪ちゃんとひろし君を残して退院していった。五郎君はあの事件以来すっかりおとなしくなってい。私は車椅子を卒業し、何とか松葉杖をつかっての歩行練習に取り組みだし、歩行にもだいぶ慣れて来ていた。
 病院脇の桜が咲き誇る季節が来、私の退院も近づいてきていた。春の陽気が誰もを浮かれた気分にしていた、J君の事件の後遺症とでもいうべき暗く沈んだ空気はもうない、一人を覗いては……。J君の姉は時々、人目を気にしながらも、思い出したようにこの病室を訪れ、私とJ君の思い出話をしていく。J君は幼い頃に両親を事故で亡くし、頼るべき親戚も無く、施設で姉と二人きりで生活していた。もちろん施設内ではたとえ姉弟であっても一緒に暮らせはしなかったが、J君の姉が働きだしてからは、施設を出て小さなアパートでひっそりと、姉弟仲良く暮らしていたらしい。お互いたったひとりの肉親だったのだ。J君の姉は、春の陽気にほだされる事も無く、落ち込んでいた。たった一人きりの弟を失ったのだ、それもあんな状況で……。立ち直れないのはわかっていた、それでも私は彼女を励ますほかなかった、他に相談出来る人もいないというのに。

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (9)


 事件の夜から三日がたった、相変わらずJ君は一言も言葉を発しない。見舞いに来たJ君の美人の姉は、病院内で初めて事件のことを知り、弟が疑われていることがよほど心外らしく、看護婦や医師に寄るとさわると大声で食ってかかっていた。私は次に何が起きるのかはよくわかってた。何しろここは、渡り廊下を挟んだだけで、事件のあった五郎君達の病室と、ほとんど目と鼻の先なのだ。
 私はいくら美人でもこれでは、とうんざりして内科病棟の向かいの部屋を見ていた。この姉の訴えが聞こえたのか、その渡り廊下を五郎君の母親が、全力疾走でもするかのように走ってくるのが私の目に入った。うらやましいほどの脚力だった。それからがこの病室は修羅場だった、私も病院で、しかも赤の他人が目の前で取っ組み合いの喧嘩を始めるとは思ってもみなかった。
 始め、美女が興奮するのをおもしろそうに眺めていた同室の、いや近くの病室からも集まってきていた野次馬達は、喧嘩が始まると、すぐに君子危うきに近寄らずといった顔つきで、そそくさといずこへともなく去っていった。同室の患者達も、病室の出入口付近で取っ組み合った女二人と、それを止めようとする医師と、その周りを心配げに取り囲む看護婦達の間を巧みに抜けて行ってしまった。後に残ったのは、病室で暴れ回る狂暴な一団と、J君と私だけであった。
 するとJ君もそっとベッドから降り、まるでトイレにでも行くかのようにさり気なく、狂暴な一団の脇をすり抜け、病室を出ていった。例の一団とともに後に残った私には、彼が絶えられなくなった気持ちが良くわかるように思えた。しかし、私は出て行くわけにはいかなかった、あの興奮した一団の横を、車椅子で通り抜ける自信がなかったのだ。
 まったく誰も気付かなかった、J君が消えてしばらくした後、外を見ていた私の目の前をJ君が落ちていったのに……。
 J君が飛び降りたあと、私はベッドの上からありったけの大声で騒がしい一団を静まらせ、J君の自殺を告げると、その真偽の確認をする前に彼の姉は気を失い、医師や看護婦達は脱兎の如く窓際まで跳んで来、窓を開けるとほんの一瞬下を見ただけで、窓を締めてしまった。看護婦達の顔は真っ青だった。五郎君の母親は初めポカンとしていたが、ことの意味を理解すると、ニタリと嫌らしい笑いを浮かべ、気を失っているJ君の姉を見下ろしていた。
 Y字路の一辺を挟んだ向こう側、例の子供達の病室から、五郎君が一人でJ君の亡骸が倒れているらしい下方を、じっとまじろぎもせずに見つめていたのが印象的だった。
 J君の自殺に関して、誰もそのはっきりとした理由を知ることは出来なかったようだ。

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (8) 第五節

   5

 刑事達が帰った後、J君はじっとベッドに入ったままうつぶせになっていた。原稿を書こうとワープロに手を出すでもなく、かといって童話を手に取るでもなく、じっと動かずにいた。まるで動いてしまうのが、即自分の破滅につながるとでもいうかのように。
 無理もないと私は思った、彼の、五郎君への殺人未遂容疑は決定的だった。昨日この病室でJ君の話を聞いていたのは、五人の子供達と私だけであった。J君の並びのベッドに寝ている二人はもうすぐ退院だとかで、リハビリのために病室を出ていたし、私のお隣さんは最近入院したといっても、のそのそと病院中を探検するだけの元気は残っていた。ひとつ挟んだ廊下側のベッドは現在は空きになっている。
 夕べ五郎君のベッドにケーキが置かれるのを知っていたのは私とJ君の二人だけ、五人の子供達はケーキが出てくるかもしれない、と漠然と思っていただけだろう。とすればケーキにヒ素を盛ったのは私かJ君かどちらかということになる。刑事達の考えでは、私は車椅子がなければベッドから出られないのだから、車椅子が入れないJ君のベッドサイドにある棚の中のケーキに、手を触れる事はできない。答えは簡単、2マイナス1イコール1、五郎君の毒殺未遂犯人はJ君というとこになる。まさか五郎君のベッドの上に置かれたケーキに、こっそりと毒を盛る人間がいるとは考えられない、同じ病室に五人の大人が付き添いとして泊っているのだ。
 それからJ君は、青白い顔をしたまま、まったく口をきかなくなってしまった。無理もない、それ以来J君を見る周りの目がまったく変わってしまったのだから。それまでは子供好きのやさしい美少年として見られていた彼は、いまや何を考えているのかわからない殺人鬼だと思われているのだから。同室の人間からは、絶えず無視され、検診にくる医師や看護婦達からは常に白い目で見られているのだ。
 子供達はパッタリとこの病室へ足を踏みいれなくなった、もちろん親のいいつけを守っているからだろうが、やはり半分はここが恐くなったからだろう。 二人連れの刑事は次の日もやってきたが、あまり調べは進んでいないようであった。

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (7)


「あなたは?」
そう聞く九条刑事に、私はMという自分の名前を告げ、下半身付随で入院していること、子供達が童話を聞きに来ているときには、車椅子の練習をせずに、ずっとベッドの上で一緒に話を聞いている事を話した。そして、昨日のJ君の創作童話が即興であった事を証言した。そしてその後、J君が病室を抜け出したあと、ケーキの箱を手に帰ってきた事も……。
 するとそれまで黙っていた小島という太っちょ刑事が口を挟んだ。
「するとつまり、五郎君が食べたケーキはJさん、あなたが買って来たものだということですか?」
 ギロリとにらんだその目は、眠そうに半分トロンと下がっていたため、いくぶん迫力に欠けていた。しかし、それでもJ君にはいくぶんかは応えたらしく、彼の顔はいよいよ青く、というより、ほとんど紙の様に白くなってしまっていた。
「確かに、確かにあのケーキは僕が買って来ました、でも僕が五郎君にヒ素を盛ったなんてとんでもない。あのケーキは子供達に話をしたあと、こっそり病院からぬけ出して、そこの、その大通りを渡ったケーキ屋で買って来たんです。嘘じゃないです」
 J君は必死になっていた、何といっても殺人未遂、それも子供にたいする殺人未遂の容疑をかけられているのだ。必死になったおかげで、いくぶん顔に赤みがさしてきたのはよかった。
「それから、それからまっすぐ病室へ戻ってそこの」
とベッドサイドの棚を指し示し、
「そこの棚の中へ閉まっておいたんです。そうですよねMさん、見てたでしょう」
 J君の必死の訴えに私はうなずいた、そしてケーキの箱が病院の近所のH堂の箱であった事を告げた。
 九条刑事は、ベッドサイドにある、小ぶりの冷蔵庫のような棚の扉を開いた。インスタントコーヒーやクリーム、お茶やきゅうす、マグカップに湯飲みと、ありふれたものが入っている。
「Mさん」
と小島刑事。
「Mさんは誰かがその棚を開けて、何か怪しいそぶりをしているのを見かけられませんでしたか」
 私は、車椅子の練習をしているとき以外はずっとベッドの上にいる。その間以外の事は証言出来ないが、夕べJ君のベッドサイドで、というより、この病室内で怪しい人間は見ていない。
 刑事達は顔を見合わせた。
「Jさん、あなたがケーキの箱を持って、その渡り廊下を渡って、子供達の病室へ行って、それからどうなりました」
「は、はい。ええ、子供達の病室へ行ってそっとドアを開けると、五郎君とゆうき君の二人が起きていました。二人は窓際でずっと星空を眺めていたんです。僕は付き添いの方達を起こさないように、そっとその箱を五郎君のベッドに置いて、そのあとすぐにここへ帰って来たんです」

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (6) 第四節

   4

 次の日はとんでもないことになった。深夜、ナースコールに呼ばれた当直の看護婦M子さんが、子供達の病室へかけつけると、ベッドの上で五郎君が嘔吐しながら転げ回っていたというのだ。検査の結果わかったのは、五郎君の嘔吐の原因は、いつのまにか食べたショートケーキとともに、ヒ素を食していたということだった。にわかに病院中が大騒ぎになった。次の朝、星野病院には数名の警察官が登場し、慌ただしくも殺気だった雰囲気に包まれていた。
 私のベッドの向かいのJ君は、ヒ素入りケーキの話を聞くとサァッという音が聞こえるかと思うほど一瞬に青ざめてしまったのだ。無理もない、昨日あんな話をしたばかりなのだ。どこでどう聞いたのか、その二人の刑事、眼鏡をかけた出っ歯の刑事とまん丸と太った刑事がその話を聞きにきた。
 出ッ歯の刑事は九条と名乗った、太っちょの方は小島といった。
 数日前に個室から私の隣のベッドへ移ってきた男が、ロビーやナースステーションで聞きこんで来た話によると、昨日のJ君の創作童話の話は、もうすでに病院中に広がっているらしい。彼の創作した通りの奇跡が続けて起きたことに関しては、にわか名探偵達が、あらゆる推理憶測を飛ばしているということであった。
 J君は青白かった顔を、よりいっそう蒼白に染めて、冷や汗を流しながら刑事の質問に答えている。
「あれは、その、雪ちゃんのお父さんのことですが、その日にロビーで、雪ちゃんのお母さんが雪ちゃんのお父さんと電話で話しているのを立ち聞きして……。それからあの話を作ったんですよ」
「では、五郎君のケーキのことは?」
と九条氏。
「それは……、あれは即興で、その場で五郎君に願いごとを聞いて創ったんです。僕に出来ることなら叶えてあげてもいいし、出来ないことならその時はその時だと思っていただけです」
「本当にその場で五郎君に聞いたんだね」
九条刑事の質問に対して、その点は保証するとの私の言葉に、刑事たちは振り返った。J君は突然の助っ人に、いくぶんほっとしたようだった。

ホシニネガイヲ

ホシニネガイヲ (5) 第三節 ☆☆

   3

 次の日の子供達の騒ぎようといったらなかった。雪ちゃんのお父さんが雪ちゃんのお見舞いに来たのだ。なんでも、仕事の都合をつけて、なんとか午前中だけ仕事を休ませてもらったということだった。子供達はまるで昨日のJ君の話が本当になったといわんばかりに騒ぎまくっていたのだった。雪ちゃんのお父さんが帰った後、子供達はどっとこの病室に転がりこんで来た、昨日のJ君の話の続きを、さっそく聞こうということらしい。

   ☆☆

(きのうの続きだったね)
 次の日、雪ちゃんのおとうさんがお見舞いに来てくれました。ながれ星が願いを叶えてくれたのでした。
 雪ちゃんはびっくりして、病室のみんなにながれ星のことを話しました。みんなびっくりして、僕も願いごとをかなえてもらうぞ、私も願いごとをかなえてもらう、とその夜はみんなこっそりと看護婦さん達に見つからないように起きていました。雪ちゃんは夕べずっと起きていたので今日は眠くてしかたありません、とうとう一人で眠ってしまいました。ほかのみんなも一生懸命起きていようとしましたが、さっちゃんもひろし君もゆうき君もとうとう眠ってしまいました。
 五郎君は一人で起きていると、そっと窓のところまで行き、カーテンを開けると、じっと空を見上げながらながれ星を待っていました。ふいにキラキラと輝くながれ星が空の上の方に見えました、五郎君はすぐに……、
(五郎君、きみの願いごとは?)
(ぼ、ぼくケーキが食べたい)
(ハハハ、五郎君て食べることばっかり)
 ──と、これはさっちゃん──
五郎君はすぐに、
「ケーキが食べたい、ケーキが食べたい、ケーキが食べたい!」
と唱えました。
 五郎君は、ながれ星に願いごとも唱えたし、もうとっても眠くなっていたのでベッドのところまでもどりました、するとベッドの上にケーキが一つ置いてあるのです。五郎君はびっくりしましたが早速ペロリと食べていまいました。
(クスクス)
(アハハハ、五郎君らしいや)
 その次の日は、もう五郎君のケーキの話でもちきりです。みんな、いいな、いいな、とさわいでいます。よし、今度こそはと、さっちゃん、ひろし君、ゆうき君の三人ははりきっています。
 その日の夜、雪ちゃんはもう願い事を叶えてもらったので安心して眠っています。五郎君も願い事を叶えてもらったのですが、どうしてももう一個ケーキが食べたかったので、頑張って起きていることにしました。
 四人は、付き添いのおかあさんたちが寝たのをみて、窓際へいってじっと流れ星があらわれるのをまっていました。しかし五郎君は、前の日にあんまり寝てなかったのでつい、うとうとと眠ってしまいました。
 子供達は三人になったけれども、みんな必死に流れ星を待っています。
(さあ、そろそろ時間だね。続きはまた明日、次は一体誰の願い事が叶うんだろうね?)