しあわせな老人

しあわせな老人 (7)


 奇妙な三人連れは、そのまま何度も廊下を折れ、どんどんと屋敷の奥へ奥へと進んでいく。と、ふいにとある部屋の前でたちどまると、ふたりの黒眼鏡の男達は、老人ひとりを扉の中へと押し込み、さっさといなくなってしまった。 老人はただ茫然と立ち尽くしているだけであったが、そんな老人のまわりでは、この屋敷の使用人らしき数人の人間が、半ズボンにに半袖シャツ一枚という格好で、忙しく立ちまわっている。
 あっという間に老人の着古した汚着は引きはがされてしまった。ポケットにはさっきの変な男にもらった札束が入っているのだが、驚いて声もでない老人には、もはやどうでもよいことであった。
 老人はそのまま、奥の部屋へ連れていかれたが、その部屋へ入った瞬間、老人はさらに茫然としてしまうのであった。
 そこは、老人の住むぼろアパートの部屋が五つか六つほど入ってしまいそうな浴室だった。所々薄墨が波打っているような模様の入った白い石が一面に照り輝き、それこそプールかなにかとみまごうばかりに大きな浴槽が中央に“でん”と貫禄たっぷりに構えている。
 数人の使用人は、老人が今まで見たことも触ったこともないような、柔らかい泡のたつ香りのない石鹸で、隅から隅まで老人の体を洗っている。あまりのアカに使用人たちも驚いたようだが。
 次に老人は、ぬるぬるとする甘い香りのする白いお湯がたゆたっている浴槽にしずめられた。浴槽は、一面に細かい泡が湧きあがっていた。
 浴槽に気持ちよくつかっていた老人が、やっと正気にもどり、意味のない言葉をなげかけようとしたその瞬間、そばに立ち添っていた使用人たちによってザブリと引き上げられ、そのまま全方向から温風の吹き出すせまい部屋に押し込められた。
 老人の貧弱な体一面に張り付いていた細かい水滴が乾いたかと思った次の瞬間、老人は初めの部屋の中で、今まで触れたこともないような不思議な柔らかい生地で、ていねいに仕立てあげられた黒い服を着せられていた。なんて高そうな背広だ、と老人はとりとめもなく考えていた。老人は燕尾服という言葉を知らなかった。
 いつのまに現れたのか、老人はまたしても黒眼鏡のふたり組に脇の下を抱えられ、広い廊下を通って別の部屋へと連れていかれた。
 今度の部屋はそれほど大きくはないようであったが、それでも老人の部屋がふたつは入りそうな所ではあった。じつに瀟洒な部屋であったが、老人の目にもお金のかかった部屋であることはわかった。
 機械仕掛のようなごつごつした大きな椅子に鏡に向かって座らされ、ぴかぴかと光った白い大きな布を首にまかれ、全身白づくめの奇妙な男が、くしとはさみを手にあらわれたとき、ここが理髪室であることが老人にもわかってきた。
 まさにマシンガンのような音をたて、男ははさみをふるう、そのたびに老人の髪が宙を舞う。なんとか正気にかえった老人は、またもや言葉をかけようとしたが、喉元にあてられた剃刀の刃のゆくえが気になり、とうとう声をかけることができずじまいであった。
 服を着替え、髪を切り、髭をあたった老人は、馬子にも衣装というのか、どうにか一介の紳士に見えるようにはなっていた。
 さすがに今度は脇の下をかかえられることもなく、なんとか黒眼鏡のふたり組についていくことができた。しかし老人は、これからいったい何がおきるのかと心配でならなかった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (6)


「こんにちは、おじいさん。いや、こんばんはかな」
 声をかけたのは、助手席の男である。
 先程は暗くてよくわからなかったのだが、こうして車内に入ってみると、なかなかどうして、実に豪華な車であった。
 シートは総革張りで、クッションもやわらかく、車外の振動もまったく伝わってこない。老人はしばらく、この車は止まったままなのだと思っていたほどだった。
「あ、あなた方はどなたですか? なぜ私にこんなことを……」
 車内には、老人以外に四人の人間がのっていた。助手席の男と、後部座席には老人をはさんでふたりの男、それと運転手……。
 車を運転しているのは、実直そうな男、黒い運転手の制服を着、わき目もくれずにもくもくと運転している。
 老人をはさんでいるのは、黒服、黒眼鏡のいかつい無口で無表情な男たち。
 助手席の男は、すきのない鋭い目をした三十歳代なかばのエリート・ビジネスマンといった感じの男だ。
「おじいさん、これからあなたをある場所まで案内します。おとなしくじっとしていれば痛い思いはしなくてすみますよ」
と、助手席の男は軽く脅かす。
 老人はしかたなく、じっとおとなしくしていることにした。
 車は西へ向かっているようであった、だんだんと高台へ登っていく。暗闇の中で街灯に切り取られた車外の景色は、次第に落ち着いた住宅街のそれへと移っていった。老人の住む下町とはがらりとおもむきのことなる高級住宅街だ。
 驚くほど長い塀を横目に、次第に街の奥へ入っていく。
 時々、鬱蒼と茂る木々の間から、びっくりするほど大きな建物の輪郭が垣間見える。
 人通りのない大きな通りを走っていた車は不意に、ある門を通り抜けた。そこはこの辺りでも、特に大きいのではないかと思われる屋敷の敷地であった。
 細かなところまで手入れのゆきとどいた暗い木々のアーチを抜けると、何百ものスポットライトを浴び、光り輝く白い邸宅が目の前にそびえた。
 玄関の前の車寄せに車が横着けになると、老人はふたりの黒眼鏡に車外へ引っ張りだされた。ふたりは、老人の脇の下に手をやり、小荷物かなにかのように軽々とぶら下げながら、見上げるような玄関をくぐった。そのままの姿勢でつかつかと玄関ホールを抜ける。天井には、夜空の星々を集めて作ったような、人々を威圧するほど大きなシャンデリアが輝きながらぶら下がっている。
 老人はもう唖然として、これからどこへ連れていかれるのかと辺りをきょろきょろと見回していた。

しあわせな老人

しあわせな老人 (5)


 しばらくして、老人はまた、ひとり公園のベンチに座っていた。結局、さっきの青年は、何のために老人をさそったのかわからなかった。話らしい話もせず、コーヒーを飲み終るとさっさと勘定をすませて帰っていってしまった。
 しかし、老人はしあわせだった。見ず知らずの人が、自分に対して親切にし
てくれるのだ、
(この世も、まだまだ捨てたものじゃない)
と老人は思う。さっきまでもう死んでしまおうかとも考えていたのに……。
 ひそかな、そして幸福感に包まれた静寂は、一分と続かなかった。どたどたと、大きな足音をたてて、大通りの方から男が走ってきたのだ。その男は落ち着きのない様子できょろきょろと辺りを見回していたが、やがてベンチに腰掛けた老人を見つけると、ニヤリといやらしい笑いを満面にうかべ、またもやどたどたと走ってきた。
 男は、ごわごわとしたかたそうな髪をしていた、頬に大きな傷をつけ、真っ黒な顔にぼつぼつと無精髭をはやしているのが、街灯の弱い明かりに見える。目は充血し街灯の明かりがギラギラと反射している。手には大きな黒いかばんをもち、ニヤリとした汚い笑い顔でこちらへ走ってくるのは、あまり気持ちのよいながめではない。
「へへ、じいさん、さびしそうだな」
 男はそういうと、手にもった黒い大きな鞄へ手をつっこみ、
「ほれ、これをくれてやるよ。楽しく新年を迎えるんだな」
と、大きな札束を取り出すと、老人に投げやり、そのままどたどたと裏通りへ走りさっていった。
 老人はただ茫然として、手もとの札束を見ていた。こんな大金は、しずかに生活してきた老人にとって、まったく初めて見るものであった。

 陽はとうに暮れていた。
 老人は、せめて新しい年は、自分の家でおばあさんの写真といっしょに迎えようと思い、ベンチからたちあがると、とぼとぼと裏通りに面した公園の出入口にむかって歩きだした。上着のポケットにはさきほどの札束を入れたまま……。
 ちょうど公園を出かかったとき、猛スピードで走ってきた黒いぴかぴか光る車が、急に老人の目の前でとまった。
 あたりの空気をかき乱すように、車の後ろのドアが音も立てずにいきおいよく開くと、中から黒眼鏡をかけた黒服の男がでてきて、あっというまに老人を車に連れ込み、走り出してしまった。
 老人は誘拐されたのだ……。

しあわせな老人

しあわせな老人 (4)


 喫茶店は公園とは目と鼻の先、細い路地をまたげば小さな裏玄関がある。
 カラン、と心地好い音をたてた重い樫の扉には、きれいにカットされたガラスがはまっていた。もう大掃除をすませたのか、扉のガラスはまるでその空間に氷がはってしまったのかと思うほど奇麗に透きとおっていた。
「いらっしゃいませ」
 抜けるように美しい顔だちのエプロン姿の少女が、にこりと可愛く微笑み、やさしく声をかけてくれる。
 店内は暖かく、コートのない老人をやさしく迎え入れてくれた。木目の際立った深い色あいのテーブルとやさしくカーブしたおそろいの椅子、天井で回る大きな羽のファン、歩くたびにごとごとと音をたてる木地のすれた床、頑丈な作りのカウンター。人の少ない大晦日の店内は、それでも生き生きと木目の品々が深い年月をかえりみるように、老人に語りかけてくるようだ。
 カラン、と樫の扉が音をたてる。ふたりにつづいて、太った男が店内に入ってきた。青年は太った男にせかされるように、つかつかと公園の見える窓際へいき、さっさと椅子へ座りこんだ。老人はその向いがわへ、おずおずと腰を下ろす。
「おじいさん、なにがよろしいですか? やはりコーヒーですかね。
 あ、すみません、ここ、コーヒーふたつね」
 青年は老人の好みも聞かず、さっさと注文してしまった。
 ににこと笑う青年と、おどおどと落ち着かない老人。しばらくふたりは、何をするでもなく、窓の外にみえる公園の裸になってしまった木々をながめていた。
 カタリ、と軽い音をたてて青年の目の前にコーヒーが置かれる、木漏れ日の中ゆらゆらと波うつ春の湖面を思わす、濃く香り高いコーヒーだ。そして、老人の前には白い湯気を季節外れの入道雲のように漂わすコーヒーと、雪に覆われた山を思わす小さなショートケーキが……。
「えっ」
 老人はおどろいて顔をあげる。
「すみません、これ、ケーキはたのんでないよ」
 青年もけげんに言い、顔をあげる。
「いえ、これは、こちらのおじいさんへのサービスです」
 にこりと微笑んだウェイトレスは、先程の美しい少女だった。少女はすこしはにかんだように微笑むと、そのまま小走りにかけていった。ごとごとと床が音をたてる。
 青年はかまわず、コーヒーをブラックでひとくち飲み、老人に何か話かけようと顔を上げた途端、はっとおどろいてしまった。老人が涙を流していたのだ。
「お、おじいさん。いったいどうしたのですか」
 青年が心配そうに声をかけると、
「い、いえ。こんな、こんな、見ず知らずのかたに、こんなに親切にしていただいて。こんな、小さな、薄汚れたじじいに……」
 そのとき、老人の後ろの席に座っていた男が、振り向きざまに、老人にそっとハンカチを差し出した。
「おじいさん、どうぞこのハンカチで涙をぬぐってください」
 その男は老人たちふたりの後から店に入ってきた、あの太った男だった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (3) そのこと

そのこと

 老人は死ぬことを考えていた。
 公園のベンチに座るひとりの老人。その老人に、ひとりの青年が近づいてきた。歳の頃は二十代半ば、老人の孫のような年齢である。上品なスーツを着こみ、短く切りそろえた清潔な髪、愛敬のある目と鋭く尖った鼻梁とがアンバランスにまとまっている。くちもとからこぼれた並びのいい歯が白く透けてみえる。
「失礼ですが」
 青年がそう声をかけたとき老人は、その声が自分に向かってかけられたものだとは思わなかった。
「失礼ですが、おじいさん。少々お話しさせていただいてもよろしいですか」
 それが自分に向かってかけられた言葉だと気付いたとき、老人はあまりの意外さにあっけにとられてしまった。
「あ、あの、わたし、ですか?」
 青年はこくりとうなづく。老人はあわてた、
「え、ええ、その、どこかでお会いしましたか?」
 青年はにこりと笑い、答えた。
「いえ、たぶん初めて会うと思います」
「ひ、ひと違いではないのですか」
 老人は、昔から内向的で、けっして社交的な性格とはいえなかった。こうやって初対面の人物に、親しく声をかけられたとたん、老人はどう対応してよいのやらわからなくなっていた。
 青年はにこにこと、なおも話しかける。
「たぶんひと違いではないと思いますよ。おじいさん、寒くはありませんか?よろしければそこの喫茶店にでも入りませんか? コーヒーをごちそうさせてください」
 老人はあっけにとられた。いまの若い人達は、見ずしらずの老人に親切にしてくれるほどやさしいのだろうか?
 青年は返事をしない老人の態度をどうとったのか、さあ、いきましょう、と、なかば強引に老人の手をとり、さっさと喫茶店に入ってしまった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (2)


 公園のベンチには、もうかなりの年齢と思われる老人がひとり、ひっそりと座っている。老人は何をするでもなく、ただ紫色に染まる空を見上げたり、葉も落ち北風に凍える公園の木々をながめたりと、ぼんやりと長い時間をつぶしているかのように見える。
 そんな老人を横目に、一人の男が路地を表通りへと歩いていく。このあたりは少々名の売れた占い師である。心なしかいそいそと、半分駆けるように通りすぎて行くのは、慌ただしく過ぎる今日の時間が彼を急かすのであろうか。 辺りはめっきりと冷えていた。老人はコートも着ず、汚れた上着をひっかけ、さびしげにベンチに腰かけている。
 老人はここ何年か、毎日必ずこの公園へやってきては、こうやって長すぎる自身の時間を一人ですごした。もうすでに日課になっていた。
 もう何年になるのか……、長年つれそった妻に先立たれ、独立した息子にも相手にされず、ひとりさびしく余生をおくるはめになってしまったのは。
 趣味も持たずに、いな、ただ仕事だけを趣味にして働き続けた幾星霜。歳をとり、退職して手元に残ったのは、わずかばかりの退職金と、何もすべきことのない空しく長い、苦しい日々だけであった。そして妻の死……。
 もはや人生の目標も、目的もなく、ただ生きていくだけといった人生が、いかに味気なく、いかに寒々としたものであるか、この歳になって初めて知ったとき、すでになすすべもなくたたずむ自身を見出すのみであった。
 この公園は、老人にとって思い出の場所である。
 もう随分と遠い昔、この公園ができる前に、ここには小さな池があった、厳しい日照りが続くとすぐにひあがってしまうような、水たまりのように小さな池であった。その池のほとりで初めて、まだ若かったころの老人と、彼よりもまだ若かった彼の妻とは出逢った。
 その池は、二人がひそかに逢う秘密の場所であり、二人が出逢った神聖な場所でもあった。池が枯れ、その上に公園ができてからも、二人はこの場所で逢った。二人が結婚してからも、二人連れだって歩き、息子が生れてからは三人で歩いた懐かしき場所。区画整理のために小さく削られたときも三人で歩き。息子がひとり立ちしてからは、また二人で歩いた思い出のこの公園。いまはたったひとりで、毎日ベンチに座り続けるだけになってしまった。
 今日は、亡妻と始めて出逢った記念の日だ。なぜあのとき、大晦日だというのに、自分はここにいたのか、今となってはもう思い出すこともできなくなってしまった。遠く遠く、そして遥かかなたにかすむ過去のことであった。

しあわせな老人

しあわせな老人 (1) このこと


 偽りの愛
 偽りの優しさ
 偽りの微笑み
 偽りの幸せ
 偽りの真実
 偽りの現実
 だがこの世に偶然はなく
 必然の中に偽りはない

このこと

 もう日は暮れかけていた。
 それはいつの時代のことであったのか、十二月三十一日、大晦日とよばれる一年の締めくくり、世界中があわただしく新年を待つその日。何という街かはわからない、ある程度やさしく、ある程度つめたい、そんな人たちの住む、そんな人たちにぴったりの街で……。
 その日は朝から曇天に包まれていた。人の肩に止まるとすぐに消えてしまい、積もることなくはらはらと降り続いた小さな粉雪は、午後になるともう降りてくることはなく、西から徐々に晴れかけた空には、傾き始めた陽が乾いた冬の町に明るく差しこんでいた。
 そこは人通りの少ない路地であった。比較的大きな通りから、ビルの谷間をぬけるように細々と続いている。左手のビルの裏手には、小さな古い公園があった。近所の悪ガキどもも、この日ばかりは家でおとなしくしているのであろうか、子供たちのはしゃぐ声も聞こえない。路地の右手のビルは、一階が全フロア、十九世紀の西部アメリカ風に内装された、大きな喫茶店になっている。喫茶店は大晦日だというのに平常通りに営業していた。
 時刻は、そう、もう夕方、辺りはそろそろ暗くなろうかという一歩手前、太陽の余韻は、ビルの谷間をぬけた大通りのむこう、西の空を今年さいごの夕焼け色に染めていた。冬の夕日は赤々と人々の目を射るように燃えている。すでに辺りに人影はなく、ただ公園の向かいにある喫茶店の窓から、テーブルに向かう人々の姿がちらほらと見えた。

幻想

幻想 (3) [END]

 わたしは、ふと目を覚ました。
 そこは、白く煙草の煙がうずまく部屋であった。わたしの心の中に、懐かしく響いてくる音楽が流れている。ああ、ここは喫茶店か。わたしは喫茶店のソファの上で眠っていたのだ。
「おう、気がついたかい」
 カウンターの奥から、そう語りかけてくれたのは、わたしと同じ顔をした、この店のマスターだ。
 カウンターにかけている、わたしと同じ顔をした常連客たちが、口々にわたしを気づかった言葉をかけてくれる。わたしはそんな気のいい連中に声をかけ、ゆらりと店の外へ出た。
 左右に、遥かはるか広がる大通り。ここに住む誰もが、わたしと同じ顔をし、わたしと同じ考えをもち、わたしを絶えず気づかってくれる、そんな街。あぁ、なんとここちよいのだろうか。誰もがわたしの家族であり、誰もがわたしの友人。
 向こうからわたしに近づいてくる、わたしと同じ顔をした新しい友人、彼に声をかけ、どこか空いている家をおしえてもらおう、そこが今日から新しい我が家だ。

(了)

幻想

幻想 (2)

 わたしが恐ろしい感覚にとらわれたのは、それだけの理由からではない。そのみがかれたショウウィンドウに写っているすがた、そのすがたかたちに覚えがないのだ。わたしはのろのろと右手をあげた。ウィンドウの中の人物もゆっくりと、むかって右側の手をあげた。
 わたしの中に、またあの感覚がわきおこる。そのとき、わたしの顔はひきつっていたのかもしれない、かのウィンドウ氏の表情もひきつっていたから。
(“これ”がわたしの顔なのか?)
 奇妙な現実。自分の顔をみまちがえる人間がどこにいるのだ。ここにいるにはいるが……。
(わたしは何という名なのだ?)
 わたしは自身の名前すらわからない、これこそ自分の存在をすら否定する恐怖以外のなにものでもない。しかし今のわたしには、それがさして重要なこととは考えられなかった。何かがずれている、何かが切れている。
 ショウウィンドウから、店内をのぞいてみたが、何の店かはわからない。中は薄暗く、ショウウィンドウの中には、ほこりをかぶったマネキン人形が、恐ろしく古臭い衣装を着せられてたっている。おそらく空家になっているのではなかろうか。それにしてもピカピカのショウウィンドウが異様だ。
 わたしはゆっくりと顔をあげ、なんとはなしにマネキン人形の顔をみた。またあの感覚が、わたしをおそった。どういうことなのだ、なぜこのマネキン人形は、わたしと同じ顔をしているのだ?
 わたしはもう一度ショウウィンドウに、自分のすがたを写してみた。
 同じだ! このマネキン人形と、ショウウィンドウに写ったわたしのすがたはまったく同じだった。いや、ちがう。ショウウィンドウに写ったわたしと、マネキン人形とは、ひとつだけ決定的にちがったところがあった。左右が逆なのだ、まったく正反対なのだ。つまりは、このマネキン人形は、わたしと同じすがたを、顔をしているのだ。
 わたしの頭の中は、ハンマーか何かでなぐられたように、ぐらぐらと大きく揺れ、何かが大きく反響していた。
 わたしはのろのろと歩きだした。あてはない、しかし歩きだした。ここに、このショウウィンドウの前にいるのが恐かった。
(ここはいったい何なんだ!)
 となりの家は、窓もなく、合板でできているような薄い、白く塗られたとびらがあるだけのものであった。そのとびらの手前に、黄色とも茶色ともつかぬ色に変色した、古いポスターがはってある。なんということだ、このポスターに描かれているのは、わたし自身ではないか!
 わたしをつかまえた、あの恐怖とも何ともつかない感覚は、わたしの頭の中をぐらぐらと揺らし続ける。まっすぐたっていられないような脱力感が、わたしを襲う。
 ふと、先程まで遥かかなたに見えた人影がひとつ、わたしのすぐ目の前にせまっていた。奇妙な服を着ているが、スカートをはいていることから女性だとわかる。ほんとうに奇妙な服である、ブラウスは体にぴったりとあい、そでもふくらみにとぼしく、スカートもタイトというほどでもないが、すそがあまり広がってはいない。ふと、その人物の顔をみた瞬間、わたしはたまらずに、そのばにしゃがみこんでしまった。わたしと同じ顔ではないか!
 しゃがみこんだままでも、わたしの目は、その自分と同じ顔をした人物からそらすことができずに、じっとみつめ続けていた。すっと、その人物の目が、ものめずらしそうにわたしの顔をとらえる。その人物の目は、あたかも、わたしの全てをなにもかも、そっくりつつみこみ、飲み込んでしまうように感じられた。
 わたしの目の焦点は、自分ではどうにもならくなり、だんだんと通りの反対側にあってゆく。そこでは、いままさに中にいた誰かが、とびらを押し開け通りに出てくるところであった。とびらの奥から現れた人物は男であった、いや、本当に男なのだろうか? わたしと同じ顔をしているが……。

幻想

幻想 (1)

 わたしはそこへ、どうやってやってきたのだろうか。
 それはまさしく幻想的な世界であった。わたしはどうやら、夢の世界へまよいこんでしまったようであった。それは言葉どおりの意味ではなく、そう思わせるだけの力を、この街はもっていたのだ。
 ここへは地下鉄でやってきた、それだけははっきりとわかっていた。それはただ、漠然としたイメージだけの記憶ではあるが、またはっきりとした記憶でもあるかのように思えた。地下鉄でやってきたのは覚えているが、どこからどう乗って、何という駅で降りたのか、そこのところへくると、まったく記憶が曖昧になってくるのだ。
 “都会”であはずだった。地下鉄駅で人ごみをかきわけた覚えもある。高いビルを見上げ、濃い排気ガスにむせ、見も知らぬ人々であふれかえる顔、顔、顔を、不思議な気持ちでながめていた記憶が、だんだんと自分の、もっとも深い部分からわきあがってくるのを感じていた。
 だがしかし“ここ”は、とても“都会”とは思えなかった。あの駅で降りたのは、あのひとごみをかきわけたのは、あの高いたかいビル群を見あげたのは、本当に今日のこと、ついさっきのことであったのだろうか。
 延々と続くような、ほこりが舞う長いながい大通り。道が遥かはるか続くようにみえるのは、舞うほこりが視界をさえぎってしまうからであろうか。それとも本当に延々と続いていのるであろうか……。とにかく、ほこりで白々と曇った空が広がり、さっきのあの高いビル群の影すらも見えない。
 道の両端は、奇妙な外観をもっていた。建物自体は古く、黒く塗られた壁が家々の間の小さなすきまから見てとれた。通りに面した部分、家々の通りに接した面──白いしっくいが塗られた壁、白くほこりのつもった“桟”の上に乗った奇妙なまでピカピカにみがきあげられたショウウィンドウ、アーチのようにまるいひさしの下にある茶色くかすむ樫の木でできた頑丈なとびら、木枠にはまったほこりでかすんだ窓ガラス、窓も何もなくただこわれかけた白いとびらだけの壁──、色もおちかけた下のとがった木製の看板が、カタカタとかなしげな音をたてていた。人通りはたえて少なく、ひとりふたりかすかにぽつ
りぽつりと……、それも遥かかなたに。
 自分のすぐ左手にショウウィンドウが、まるで何か襲いかかってくるかのような避けがたい威圧感をもって、そそりたっていた。わたしは通りの左端に、ぽつんとたっているのだ。いったいどこからこの通りへ入ってきたのか、うしろを振り返っても遥かはるかに、遠く通りが続くだけで、どこにもそれらしき脇道は見あたらない。
(へんだな、脇道のない通りなんて)
 ふしぎな感覚がわたしを襲った。やはり“ここ”は夢幻の世界なのだろうか、それとも……?
 サラサラとかすかな川の流れる音がきこえてきた。
(川? どこに? あの“都会”の記憶はやはりまちがいか?)
 ふと、わたしは左手にそびえるピカピカのショウウィンドウを、なにげなくかえりみた。とたん、わたしの体を恐ろしい感覚がとらえた。それは“恐怖”“麻痺”“戦慄”“驚愕”それらどれをとっても表現でき、どれをとっても表現すること困難な感覚であった。
 “桟”には分厚くほこりがつもっているのに比べ、異様なまでにみがきあげられたショウウィンドウは、それだけでもどこか不気味で、この世のものではないといった雰囲気が、ありありと感じとれた。